90 決断
ユリアは、フレドリックと共に暮らす屋敷の一室で、ひとり夕食を取っていた。
広い食卓に料理は整えられていたが、口に運んでも味はほとんど感じられなかった。
――最近、フレドリック様は帰りが遅い……。
この屋敷に移ってきたばかりの頃、彼は日が沈む前には戻ってきていた。
だがここ数週間、帰宅は日付が変わる頃か、明け方近く。顔を合わせる時間も、言葉を交わすことも、ほとんどなくなっていた。
食事を終え、部屋で本を開いていたユリアは、ふと屋敷の外から微かな物音がするのに気付いた。
砂利を踏む足音と、抑えられた声。
胸の奥がざわつき、ユリアは音を立てぬよう窓へ近づいた。
庭先には、フレドリックと付き人の姿があった。
ほんのわずか窓を開け、耳を澄ます。
「ああ。二日後の午後だ。兄上は北へ視察に向かう」
「その時が――」
「そうだ。最大の好機だ」
低く押し殺した声が、はっきりと聞こえた。
「これが成功すれば、完全に私が王だ。父上には悟られるな。
成し遂げた暁には……お前を、私の一番の臣下にしてやる」
付き人が何か応じ、二人の声は再び闇に溶けていった。
――……今の、は……。
ユリアは、その場に縫い留められたように動けなかった。
――エルフナルド様を……。
視察の途中で、襲うつもりなの……?
血の気が、音を立てて引いていく。
――たとえ私が、フレドリック様の子を身籠ったとしても……。
エルフナルド様の身が危険に晒される事実は、何ひとつ変わらない。
……やはり、この方は……。
胸の奥が、静かに締め付けられた。
――この国を守れるのは、エルフナルド様しかいない。
目を逸らしてきた答えが、否応なく突き付けられる。
――……止めなければ。
もう、他に選べる道はない。
ユリアは深く息を吸い、震える指をぎゅっと握りしめた。
翌朝。
ユリアが朝食を取っていると、扉が開き、フレドリックが入ってきた。
「分かっているとは思うが、今日は医官の診察の日だ」
「きちんと受けろ。王宮に行っていいのは、その後だ」
命令口調で、拒否を許さない声音。
「……はい。分かりました」
視線を伏せたまま、ユリアは静かに答えた。
――この日が、来てしまった。
今日の診察で許可が下りれば、再びあの地獄が始まる。
それを、フレドリックも分かっている。だから、こうして念を押した。
逃げ道は、もうない。
そして――
昨日耳にした話が真実なら。
明日、エルフナルド様は北へ向かわれる。
その道中で……。
命を奪うのか。
それとも、生かしたまま幽閉するのか。
どちらにせよ、エルフナルドに何かあれば、王位を継ぐのはフレドリックだ。
――……もし、私が子を身籠っていれば……。
そこまで考え、ユリアは奥歯を強く噛み締めた。
そっとポケットに手を入れる。
指先に触れた、小さな硝子瓶。
冷たい感触が、決意を現実へと引き戻した。
――……やるしかない。
ユリアは、小瓶を強く握りしめた。
医官の診察を終え、ユリアは馬車で王宮へ向かっていた。
告げられたのは、予想通りの言葉。
「子作りを再開しても、問題はないだろう」
今夜には、フレドリックの耳にも入る。
そう思うと、胸の奥が重く沈んだ。
ユリアは静かに息を吐いた。
――……大丈夫。
きっと……。
自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返す。
王宮に着くと、薬事室でいつも通り作業をこなした。
身体は動いているのに、意識はどこか遠い。
昼過ぎ、庭園へ出て、ふと顔を上げる。
かつて自分の部屋だった廊下の窓に、人影が見えた気がした。
――……エルフナルド様。
一瞬、確かにそう見えた。
――お疲れのよう……。
ちゃんと、食事は取れているのかしら。
無意識に伸ばしかけた手を、途中で止める。
今の自分には、届かない。
ユリアは目を閉じ、深く息を整えた。
――どうか……お元気で。
それが、最後の願いになるかもしれない――
そんな思いが、胸をよぎった。
「ユリア様」
呼び止められ、振り返ると、見張り役の騎士が事務的に告げた。
「フレドリック様より、本日は早めにお帰りになるようにとの事です。ご一緒に夕食を取るように、と」
――……やはり。
「……分かりました」
ユリアはそう答え、それ以上は何も言わなかった。
帰り支度を整え、ユリアは静かに王宮を後にした。
屋敷へと向かう馬車の中で、ポケットの中の小瓶の存在が、重く主張し続けていた。




