88 静かな決意
ユリアは、市場にほど近い場所に構えられた屋敷の一室にいた。
部屋には、ユリアひとりきりだった。
以前、医官の診察を受けた際、
「今の体調では、子を身籠ることは難しいでしょう」
そう告げられてから今日に至るまで、フレドリックはユリアを抱くことをやめていた。
ユリアの体調回復が最優先であり、子作りは控えたほうがよい――
それが医官の判断だったからだ。
だが、それを理由に、フレドリックはユリアと同じ部屋で過ごすことすら、ほとんどなくなった。
子を作れないのであれば用はない、と言わんばかりに。
軟禁されていた頃、ほとんど口をつけずにいた食事も、今では毎日監視されるようになり、食べないという選択肢は与えられなかった。
少しずつ戻っていく体重。
鏡に映る、自分の肉付きがわずかに戻ってきた身体。
それを目にするたび、ユリアの胸には複雑な感情が広がった。
――もうすぐ、医官の診察の日だわ。
もし、その日――
「子作りを再開しても問題ない」と言われてしまったら。
――また、あの地獄の日々が始まってしまう……。
焦燥が胸を締めつける。
――早く……。
早く、やり遂げなければ……。
ユリアは、身を丸めるようにして、自分自身を強く抱きしめた。
翌日。
ユリアが薬事室で作業をしていると、クリックがやって来て声をかけた。
「最近は、どのような薬をお作りになっているのですか?
以前にも増して、ずいぶん真剣なご様子ですが……」
「……栄養剤のようなものを作っているんです。体調を崩して体重が減ってしまったので。今はだいぶ戻りましたが、もっと少量でも効率よく栄養を補給できるものを作ろうと思いまして。戦争の時には、そういったものがとても役立ったんです。戦時だけでなく、非常食としても使えますから」
「それは便利なものですね。長期の視察が多いこの国では、重宝されるかもしれません」
クリックは感心したように、そう頷いた。
「特に南の国の薬草が、栄養剤の要になるんです。南の薬草は本当に用途が広くて……。もっと栽培量を増やせればと思っているんです」
そう言いながら、ユリアは作業していた薬草を棚へと戻した。
「そうだ、クリック様。もしよろしければ、この機会に南の薬草のお手入れ方法を覚えていただければと思って、簡単なメモを書いてきたのですが」
「本当ですか? ありがとうございます」
クリックは嬉しそうにメモを受け取り、目を通した。
「とても分かりやすいですね。早速ですが、質問してもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。庭園へ行きましょうか」
それから数日かけて、ユリアはクリックに薬草の手入れ方法を丁寧に伝えた。
クリックが王宮へ戻ると、ユリアは再び薬事室に籠もり、薬草を煎じた。
クリックには「栄養剤を作っている」と話したが、それは嘘だった。
ユリアは、ある計画のために――誰にも知られぬよう、毎日薬草を煎じ続けていた。
――もう少しよ。もう少し……。
もう少しで……完成する……。
額を伝って、汗が一筋、静かに流れ落ちた。
別の日。
カリルが執務室に入ってきて、エルフナルドに声をかけた。
「陛下。薬師のクリック様が、陛下にお話したいことがあるといらっしゃっています。お通ししてもよろしいでしょうか?」
「ああ」
程なくしてノックの音がし、クリックが執務室へと入ってきた。
「どうした? 何の用だ?」
「ユリア様のことで、ご相談があるのですが……」
エルフナルドは、クリックの名を聞いた時点で、用件はユリアに関することだと察していた。
そのため、特に驚いた様子も見せず、静かに頷いた。
「ああ。話してくれ」
「……ユリア様が王宮にお戻りになってから、再び庭園に足を運ばれるようになったのですが……少し、引っかかることがございまして……」
「……何だ?」
エルフナルドは眉をひそめ、クリックを見据えた。
クリックは一瞬言葉を探すように視線を落とし、短い沈黙の後、口を開いた。
「以前から薬草の手入れ方法は、ユリア様より教えていただいておりました。しかし最近は……前にも増して、細かい管理方法まで私に教えてくださるのです。本来は『難しいもの』や『扱いに注意が必要なもの』は、ご自分でなさるとおっしゃっていたのに……それらまでも」
クリックは言葉を選ぶように、一度息を整えた。
「最初は、教えていただけることが素直に嬉しくて、疑問に思いませんでした。ですが……なぜ、今なのか、と。ユリア様にお尋ねすると、『自分が庭園に来られない日もあるかもしれないから』と……そうおっしゃいました。ですが……どうにも、それが本心には思えず……」
そこまで話すと、クリックは言葉を止めた。
執務室には、重い沈黙が落ちる。
エルフナルドは何も言わず、ただ黙ってクリックを見つめていた。
「ユリア様は……以前のユリア様とは、同じとは思えません。一見すると、変わっていないように見えるのですが……何を考えていらっしゃるのか、表情から読み取れないのです。あんなにも感情が顔に出るお方でしたのに……。陛下も、そうお感じになりませんか?」
「……そうだな」
エルフナルドは、低く答えた。
「お前の言う通りだ。私も、ユリアが国に戻ってきてから一度会ったが……以前のあいつとは、まるで別人のようだった。ユリアから離縁を申し出られ、それを受け入れはしたが……今も、腑に落ちないでいる」
クリックは、意を決したように、さらに一歩踏み込んだ。
「ユリア様が、フレドリック様をお慕いしているなど……やはり、どうしても信じられません。確信があるわけではありませんが……ユリア様は、何かを隠していらっしゃるように思うのです。そして……何か、危険なことをされているのではないかと……どうしても、その考えが頭から離れません」
その言葉に、エルフナルドは微かに息を詰めた。
――以前、アリシアにも、同じようなことを言われた。
表情が違う。何かがおかしい、と。
「……分かった」
エルフナルドは、ゆっくりと頷いた。
「もう少し、ユリアの動向を注視させる」
「ありがとうございます」
クリックは深く頭を下げ、執務室を後にした。
その背を見送りながら、エルフナルドの胸に、
嫌な予感だけが、はっきりと形を持ち始めていた。




