87 諦めるべき存在
エルフナルドはその晩、執務を終えると自室の長椅子にゆっくりと腰を沈め、手にした酒のグラスをそっと傾けた。
喉を焼く刺激にも構わず、ゆっくりと酒を口に含んだ。
昼に目にしたユリアの姿が、まるで影のように、何度も脳裏に浮かんでは、静かに消えていった。
――本当に、見抜けなかった。
正直に言えば、ユリアが嘘をついているのなら、すぐに分かると思っていた。
いつものユリアなら、視線やほんの僅かな表情の変化で、何を考えているか分かったはずだった。
だが、久しぶりに目にしたユリアは、アリシアの言葉通り、まるで別人だった。
自分と顔を合わせた瞬間こそ、確かに驚いた様子を見せた。
しかし、それも一瞬だった。
その後は、何を問いかけても、感情を押し殺したような無表情のまま。
声も、視線も、隙がなかった。
あんなユリアの姿は初めてだった。
そして、残された手紙の内容だけでは、どうしても信じ切れなかった。
だからこそ、直接会って確かめようとしたのに――。
ユリアの口から告げられたのは、義弟を慕っているという言葉。
「お慕いしております」
その一言を聞いた瞬間、鈍器で頭を殴られたような衝撃が走った。
自分と共にいた間、あれほど多くの時間を過ごしながら、
あいつは――
一度として、その言葉を口にしなかった。
それを、他の男の名と共に、あんなにも淡々と告げるなど。
胸の奥が締めつけられ、息が詰まった。
これ以上、あの場に留まっていれば、何をしてしまうか分からなかった。
だから、ユリアを残して、逃げるようにその場を去った。
――もう、自分にはどうすることもできない。
諦めるしかない。
理屈では、そう分かっている。
だが。
――こんなにも、あいつを欲しているというのに……。
グラスを握る指に、無意識に力がこもった。
翌日、エルフナルドは先王のもとを訪れ、ユリアとの離縁を申し出た。
激しい叱責や反対を覚悟していたが、意外にも、先王は淡々とそれを受け入れた。
そのあまりにも落ち着いた反応に、かえって胸の奥がざわつき、少しだけ引っかかるものを感じた。
――あれほどユリアに執着しているように見えた父上が、なぜ、こうもあっさりと……?
何かがおかしい気がした。
執務室に戻ったエルフナルドの顔色は優れず、深い溜息を何度も漏らしていた。
「いかがされたのですか、陛下。最近、考え事をされていることが多いようですが……今日は特に」
側近のカリルが、案じるように声をかける。
「……いや、何でもない」
短く答えながら、エルフナルドは視線を落とした。
――考えたところで、仕方がない。
ユリアは、もう自分の元へは戻らない。
忘れなければならない。
忘れなければ、前に進めない。
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥に居座る痛みは少しも薄れようとはしなかった。
夜が更け、月明かりが窓から差し込む中、酒の匂いと静寂だけが、彼が“王であること”を思い出させるように、孤独な心をじっと見つめていた。




