86 貴方の元には
ユリアが次の日、庭園を訪れると、そこでクリックと再会した。
突然現れたユリアの姿に、クリックは驚きを隠せなかったが、事情を簡単に伝えると、それ以上深くは問いただしてこなかった。
それがユリアには、ありがたくもあり、同時に胸が痛むことでもあった。
ユリアは、再び王宮に足を踏み入れることを、心の底では強く嫌悪していた。
一番恐れていたのは、エルフナルドに会ってしまうこと。
だが、たとえ他の誰であっても、真実を語ることはできず、嘘を嘘のまま貫かなければならない。
それがどれほど心をすり減らすことか、ユリアは痛いほど分かっていた。
心配して声をかけてくれるアリシアやクリックに、優しい嘘を重ねなければならないことが、何よりも辛かった。
それでも、屋敷に籠もることは許されず、日中は王宮で過ごすよう命じられていた。ユリアに選択肢はなかった。
初めのうちは、王宮の廊下を歩くだけで胸が締めつけられ、エルフナルドと鉢合わせするのではないかと神経を張り詰めていた。
やがて、執務で不在になりやすい時間帯を見計らい、庭園に足を運ぶようになった。
――会ってしまえば、きっと壊れてしまう。
そんな日々が、二週間ほど続いた頃だった。
ユリアが書庫で本を探していると、静かな空気を切り裂くように、扉が開く音がした。
「アリシア? 入口のところに脚立があるから、取ってくれないかしら。上の棚の本が――」
言いながら振り返ったユリアの視界に映ったのは、アリシアではなかった。
そこに立っていたのは、エルフナルドだった。
ユリアは、息を呑み、目を見開いた。
今日は視察で王宮には戻らないと聞いていた。
まさか、この場所で、こんな形で会うなど、想像すらしていなかった。
「……私に会うことが、そんなに驚くことか?」
低く静かな声が、書庫に落ちる。
「ここは、私の王宮だぞ」
ユリアは言葉を失い、ただ立ち尽くした。
「何故、私を避ける?」
問いかけに、答えは出ない。
「……避けてなど、おりません」
かろうじてそう返すと、エルフナルドはユリアを逃がさぬよう、じっと見据えた。
「では何故、私に一度も顔を見せなかった。お前が王宮を出て、私が心配しなかったとでも思っているのか?」
鋭く、抑えた声が胸に突き刺さる。
「……」
「今は、フレドリックと共に暮らしていると聞いた。それは……お前の、本心からか?」
その視線から、ユリアは逃げられなかった。
「どういう意味でございましょうか」
努めて平静を装った声に、エルフナルドはわずかに眉をひそめる。
「お前がいなくなったあの日、手紙を見つけて……正直、正気ではいられなかった。信じられず、すぐに探させたが……お前は見つからなかった」
苦しげに言葉を紡ぐエルフナルドに、ユリアの胸が締めつけられる。
「侍女から聞いた。王宮を出てから体調を崩し、その後、フレドリックに助けられたと……」
――違う。
助けられたんじゃない。
だが、その真実を口にすることは許されない。
ユリアは一度目を閉じ、深く息を吸い込んでから、再びエルフナルドを見た。
「……私は、この王宮での生活に、王妃であることに……疲れ果てていました。あの晩は、自暴自棄になってしまって……陛下に、あのようなことを……。不快な想いをさせてしまい、申し訳ありませんでした」
声が震えぬよう、必死に抑えながら続ける。
「陛下と距離を置いた数日で、考えました。私は、王妃には向いていなかったのです。この国に嫁ぐことが条件だったことも、理解しておりました。……それでも、どうしても、あの場所から逃げたかった」
「謝罪が欲しいわけじゃない!」
エルフナルドの声が強まる。
「フレドリックと共にいるのは、お前の本心かと聞いている!」
――本心なわけがない。
私が共にいたいのは、あなたしか……。
それでも、ユリアは顔を上げた。
「……私の意思です。王宮から逃げ出した私を、フレドリック様は受け入れてくださいました。……とても、心強かったのです」
「私がお前を避けていた、あの数日間が……そこまでお前を追い詰めていたというのか?」
エルフナルドの声には、痛みが滲んでいた。
「共にありたいと言った私の言葉は、届かなかったか? お前も……私と共にいたいと、願っていたではないか」
――願っていた。
あなたとの子を、望んでしまうほどに。
「……そんなこと、言いましたでしょうか」
静かな書庫に、その言葉だけが落ちた。
「今の私は……救い出してくださったフレドリック様を、お慕いしております。そして、フレドリック様も……それに応えてくださいました」
はっきりと告げるユリアの言葉に、沈黙が落ちた。
「……もう一度言ってみろ」
「……」
「私の目を見て、もう一度言え」
ユリアは、崩れそうになる心を必死で押し殺した。
それでも、視線を逸らさずに告げる。
「私は、フレドリック様をお慕いしております」
長い、長い沈黙。
「…………そうか」
エルフナルドは、ゆっくりと視線を外した。
「父上には、私から離縁の手続きを申し出ておく」
そう言い残し、書庫を去っていく背中を、ユリアはただ見つめていた。
扉が閉まった瞬間、頬を一筋の涙が伝う。
――これで、本当に終わってしまったのね。
これでよかった。
これ以上、誰も巻き込んではいけない。
そのために、何度も何度も、表情に出さない練習をしたのだから。
信じてくれて、よかった。
……でも、信じないでほしかった。
「お前は嘘がつけない」と言っていたのに。
「表情で絶対わかる」とそう言っていたのに……。
ユリアは、そっと涙を拭った。
この王宮で、泣く姿など、誰にも見られてはならなかった。




