104 夜に寄せる想い
その時、向かい側から歩いてくる一団の中に、見慣れた姿を見つけた。
思わず、息を呑む。
心臓が跳ね、手元の車椅子を握る指先に力が入る。
少し乱れた呼吸を整えながら、ユリアは目を凝らした。
「……あ……」
エルフナルドだった。
「へ、陛下!」
ユリアは反射的に声を上げ、今出せる精一杯の力で車椅子を漕ぎ、彼のもとへと向かった。
「ユリア? どうした?」
「お帰りなさいませ、陛下。申し訳ございません……。お昼頃にお戻りだと聞いて、門へ向かっていたのですが……お出迎えに間に合わず……」
ユリアは少し息を切らしながら、そう頭を下げた。
「出迎えに来ようとしてくれていたのか。それは、こちらこそすまなかった」
エルフナルドは穏やかにそう言い、ユリアの様子を改めて見つめる。
「予定より早く戻っただけだ。それより……随分と車椅子を押せるようになったのだな」
その言葉に、ユリアは小さく胸を震わせながら、かすかに微笑んだ。
労わるようなその眼差しに、思わず表情が緩む。
「はい……。少しずつですが、訓練の成果が出てきているようです」
「そうか。それは良かった」
エルフナルドは、ほんのわずかに口元を緩めた。
「昼食はもう食べたのか? よければ、この後一緒にどうかと思ったのだが」
不意の誘いに、ユリアは一瞬言葉に詰まる。
「あ、いえ……。朝食を少し多めにいただいてしまって……」
「そうか。それは残念だが仕方ないな」
そう言いながらも、エルフナルドはすぐに言葉を継いだ。
「だが、何も食べないのは良くない。軽くでもいいから、きちんと口にするのだぞ」
「はい。お気遣い、ありがとうございます」
ユリアはそう答え、改めて深く一礼した。
「陛下も、どうぞ今日はゆっくりお休みくださいませ」
そう告げると、ユリアは静かに車椅子の向きを変え、部屋へと戻っていった。
その背中を、エルフナルドはしばらく見送っていた。
執務室へ戻ったエルフナルドに、書類を整理していたクリックが声をかけた。
「陛下。実は、侍女のアリシアより言伝を預かっておりまして」
「……何だ?」
エルフナルドが筆を置き、視線を上げる。
「ユリア様は昨日より、お食事を部屋ではなくダイニングルームで取られるようにされたそうです」
「そうか……」
クリックは一瞬言葉を選ぶように間を置き、続けた。
「それに伴い、陛下とは食事の時間を別にしてほしいとのことでした」
その言葉に、エルフナルドの表情がわずかに曇る。
「……そうか。ユリアがそうしたいというのであれば、それで良い」
淡々とそう答えながらも、胸の奥では別の思いが渦巻いていた。
――ユリアは、明らかに私と距離を取ろうとしている……。
王妃でなくなったからという、ただのケジメなのか?
それとも……私のしていることが、重荷になっているのか……。
エルフナルドは静かに目を閉じ、思考を巡らせる。
――いっそ、ユリアが望む通りにさせてやることが、最善なのか……。
しかし、すぐにその考えを振り払うように、心の中で呟いた。
――……それでも。
ユリアを、自分の側から完全に離すことなど……私には、できない。
その夜、ユリアがすっかり寝静まった頃、エルフナルドはいつものようにユリアの様子を見に、静かに部屋へと足を踏み入れた。
灯りを落とした室内は穏やかな静寂に包まれており、規則正しい寝息だけが微かに響いている。
エルフナルドはベッド脇へ近づき、テーブルの上に置かれた小瓶に目を留めた。
それは、ユリア自身が調合した睡眠薬だった。
――やはり……睡眠薬がなければ、眠れないのか。
胸の奥に、かすかな痛みが走る。
だが、ユリアの表情は穏やかで、以前のようにうなされる様子もない。
――……以前より、きちんと効いているようだな。
そう思いながらも、エルフナルドの胸中には、拭いきれない葛藤が渦巻いていた。
もう、自分が抱きしめて眠らせる必要はないのではないか。
むしろ、それは彼女の決意を踏みにじる行為なのではないか――。
しかし――
しばらく立ち尽くした末、エルフナルドは小さく息を吐き、ユリアを起こさぬよう細心の注意を払いながら、そっとベッドに身を横たえた。
そして、静かに腕を伸ばし、ユリアを抱き寄せる。
眠っている彼女にとって、もはや必要のない行為だと分かっていても。
それでも、腕に込める力は、知らず知らずのうちに熱を帯びていた。
しばらくして、ユリアの意識がゆっくりと浮上する。
――……また、抱きしめてくれている。
目を閉じたまま、ユリアはその温もりを確かめるように息を整えた。
けれど、胸の奥で、はっきりとした声が囁く。
――でも……もう、抱きしめ返してはいけない。
あの日、「今日だけ」と誓ったはずなのに……。
そう思うのに、胸いっぱいに広がるエルフナルドの香りが、その決意を静かに揺さぶる。
――陛下は……眠っていらっしゃるのかしら。
少しだけ……ほんの少しだけなら……。
手を回しても、寝返りを打ったふりをすれば、気づかれないかもしれない。
夜だけは、甘えてもいいのではないか。
足が、もう少し自由に動くようになるまで……本当に、もう少しだけ。
揺れる想いの末、ユリアはおそるおそる腕を伸ばし、エルフナルドの背に回した。
その瞬間、彼の身体がほんのわずかに動いた気がした。
そして――
ユリアを抱く腕の力が、わずかに、しかし確かに強まった。




