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103 小さな一歩

 ユリアは朝から一人で庭園へ向かい、奥で作業をしていたクリックに声をかけた。


「クリック様、こんにちは」

「こんにちは、ユリア様。……今日もお一人でいらしたのですか?」


 クリックは手にしていた器具を置き、ユリアの方へと向き直った。


「はい。訓練も順調です。左足も以前より力が入るようになってきましたし……そろそろ車椅子ではなく、自分の足で立って、歩く練習も始めようかと思っています」


 ユリアはそう言って、両足にそっと視線を落とした。

 その声には無理に明るさを作ったような響きがあった。


「それは……順調で何よりですね。ですが、焦りは禁物ですよ」

「はい」


 ユリアは一度頷くと、言葉を選ぶように一瞬視線を伏せた。


「……あの。今日はクリック様に、どうしてもご相談したいことがあるのです」

 

 ユリアの声はわずかに揺れていた。

 その声の調子に、クリックはただならぬものを感じ取ったのか、表情を引き締めた。


「……ええ。何でしょうか」


 ユリアは胸の前で指先を重ね、ゆっくりと、しかし逃げることなく言葉を紡いでいった。

 それは自分の身体のこと、この先のこと、そして――自分が心に決めたことについてだった。


 話し終えた後、庭園には風に揺れる木々の音だけが残った。


 クリックはしばらく何も言わず、ユリアを見つめていた。

 その瞳には、止めたい気持ちと、止める資格はないという葛藤が混ざっていた。


「……そう、ですか」


 ぽつりと零れたその声は、どこか寂しげだった。


「ユリア様のお気持ちは……よく分かりました。止めることは、私には出来ません。では……その時が来たら……お声かけください」

「……ありがとうございます。クリック様」


 ユリアは深く頭を下げた。

 その表情には、迷いよりも覚悟が色濃く浮かんでいた。


 庭園での作業を終えたユリアは自室へと戻り、アリシアと向かい合ってハーブティーを飲んでいた。

 温かな湯気が立ちのぼり、部屋には穏やかな香りが満ちている。


「そうだ、アリシア……」


 ユリアはカップを両手で包み込みながら、少し間を置いて口を開いた。


「今日の夕食から、お食事は部屋ではなくダイニングルームでいただこうかしら。今までは移動の手間を省くために、お部屋に運んでもらっていたけれど……車椅子も、だいぶ自分で動かせるようになってきたし。ダイニングルームまでなら、問題なく行けると思うの」


 アリシアは一瞬驚いたように目を瞬かせた後、すぐに柔らかく微笑んだ。


「分かりました。そのように手配いたしますね。……でも、ユリア様がダイニングルームでお食事なさるのであれば、陛下もきっとお喜びになられますよ」

「……え?」


 嬉しそうに言うアリシアに、ユリアは思わずカップを持つ手を止め、少し驚いたように顔を上げた。


「明日、陛下が視察からお戻りになられますし、ちょうど良いではありませんか!」


 アリシアはそう言って、さらに表情を明るくする。

 その言葉を聞いた瞬間、ユリアの胸が小さく跳ねた。


「……そう、なのね……」


 しかし、すぐにユリアは視線を伏せ、少し気まずそうに唇を噛んだ後、静かに口を開いた。


「……陛下とは……お食事の時間は、ずらしてもらえるかしら」


 ユリアはカップを見つめたまま、そっと言った。

 

「ユリア様……?」

「もう……私は王妃ではないもの。一緒にお食事をするなんて……おこがましいわ……」


 その言葉を聞いた瞬間、アリシアの表情が曇った。


「……そんなこと……陛下が悲しまれます……」

「……立場は、わきまえないといけないのよ」


 ユリアはそう言いながら、まるで自分自身に言い聞かせるように言葉を重ねた。


「本当は……このお部屋にいることさえ、許されない立場なの。あのお方は、この国の王様なのだから……」


 アリシアは何も言えず、ただユリアを見つめるしかなかった。


 次の日の朝。

 朝食を取りながら、ユリアはふと思い出したようにアリシアに尋ねた。


「ねえ、アリシア。今日、陛下がお戻りになると言っていたけれど……何時頃かは聞いている?」

「はい。お昼頃にはお戻りになるそうです。……お出迎えに行かれますか?」

「そうね。この朝食をいただいたら、門へ向かおうかしら」


 アリシアは一瞬言いづらそうに視線を逸らし、申し訳なさそうに頭を下げた。


「ユリア様、申し訳ありません……。私この後、侍女長に呼ばれておりまして……。大変心苦しいのですが、お一人で門に向かっていただけますか?」

「ええ、全然構わないわ」


 ユリアはすぐに首を横に振り、柔らかく微笑んだ。


「最初から、自分で車椅子を漕いで行くつもりだったの。アリシアは自分のお仕事を優先してちょうだい」

「ありがとうございます。呼び出しが終わり次第、すぐに向かいますね」


 朝食を終えたユリアは、一人で車椅子を漕ぎ、門へと向かった。

 廊下の窓から外を覗くと、すでに王宮の門前には出迎えの人々が並び始めているのが見える。


「……急がなくちゃ……」


 ユリアは息を整えながら、一階へと降り、門へ続く廊下を進んだ。

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