102 眠れる理由
その日の夕刻、部屋での夕食を終える頃、エルフナルドが訪ねてきた。
「今日は一人で車椅子を押して庭園まで行ったそうだな」
「はい。左腕もだいぶ動くようになりまして……。まだ時間はかかりますが、一人で行動できる範囲が広がったのは良かったです。皆様へのご負担も、少しは減らせるかと」
「そんなことは、気にする必要はない」
エルフナルドは、わずかに眉を寄せてそう言った。
「……お前に、話がある」
「……何でしょうか」
「急遽、明日から西の国へ視察に向かうことになった。1ヶ月ほど、王宮を留守にする」
「……そうでございましたか。お気を付けて行ってらっしゃいませ」
ユリアは、浮かない表情のエルフナルドを見て胸が痛んだ。
「……お前も、一緒に来ないか?」
「……え?」
「西の国は冬でも暖かい。珍しい花や薬草も多いと聞く。お前なら……きっと気に入る。一度……見てみたくはないか?」
ユリアの胸が、きゅっと締め付けられた。
行ってみたい。心から、そう思った。
だが、今の自分の足では到底無理だった。
それでもエルフナルドは、自分が望めば、どんな手段を使ってでも連れて行ってくれるだろう。
「……お気遣い、ありがとうございます。ですが、私は王宮に残ります。今日から煎じ始めた薬草もありますし……。お気持ちだけ、頂戴いたします」
精一杯の笑顔で、ユリアは答えた。
「……そうか。何かあれば護衛に言え。すぐに私へ知らせが入るようにしておく」
「はい……ありがとうございます」
エルフナルドが部屋を出て行った後、ユリアはベッドに横になり、目を閉じた。
「……う……うぅ……」
その夜も、ユリアは悪夢にうなされた。
「やめて……や、め……」
はっと目を覚ますと、額と首筋は汗でぐっしょりと濡れていた。
――また……あの夢……。
最近は朝まで眠れていたのに……。
身体が重く、汗を拭う気力すら湧かなかった。
「……はぁ……」
もう一度眠ろうと目を閉じたが、眠りは訪れない。
しばらくすると、部屋の扉がごく小さな音を立てて開く。
ユリアは一瞬だけぴくりと肩を揺らしたが、目を閉じたまま動かなかった。
人の気配が静かにベッドへ近づき、マットレスが遠慮がちに、わずか沈む。
次いで、額にかかる髪をそっと耳へとかけられ、布で汗を拭われた。
――この温かい手と……この香り……。
鼻の奥がつんと痛み、閉じた瞼の奥にじわりと涙が溜まっていくのを、ユリアは必死に堪えた。
やがてエルフナルドは、ゆっくりとした動きでベッドの中に入り、ユリアの背へと腕を回して抱き寄せた。
その温もりに触れた瞬間、ユリアの脳裏に、かつて毎晩のように共に眠っていた日々が鮮やかによみがえる。
――あの頃も……こうして、優しく包み込むように抱きしめてくれていた……。
ああ……私が最近、よく眠れていたのは……。
抑え込んでいた感情が胸いっぱいに広がり、瞼の奥に溜まった涙が今にも零れ落ちそうになる。
ユリアはそれを悟られまいと、顔を伏せるように、ほんのわずか身じろぎした。
「ユリア?」
かすかに名を呼ばれ、胸が跳ねる。
起きていることが知られてしまったのかと思ったが、ユリアは目を閉じたまま、何も答えなかった。
エルフナルドはそれ以上問いかけることはせず、ただ静かに、ユリアの背を撫で続けた。
――この大きな手……。
私の、大好きな……陛下の……手……香り……。
その優しさに、ユリアの心はもう抗えなかった。
おそるおそる、自分の手をエルフナルドの背に回し、その胸元へと顔を埋める。
――どうか……バレませんように……。
今日だけ……本当に、今日だけだから……。
しばらくすると、緊張がほどけるように、ユリアの意識はゆっくりと沈んでいった。
朝、目を覚ました時、ベッドにはすでにエルフナルドの姿はなかった。
――やっぱり……。
きっと毎朝、私が目覚める前に……そっと出て行かれているんだわ……。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられ、再び涙が込み上げてきた。
――私のことを気遣って、いろいろ提案してくださっているのに……。
私が素直に受け取らないから、こうして……気付かれないように……。
陛下のその優しさに、私は全然、気付いていなかったなんて……。
なら、その優しさを……素直に受け取ればいい?
でも……私に、そんな資格が……本当に、あるの……?
エルフナルドが視察で王宮を離れたこの日、ユリアはなかなか寝付くことができなかった。
これまで眠れていたのは、陛下がそばにいてくれたからだったのだと、改めて思い知らされる。
このままでは良くない。
そう自分に言い聞かせ、調合を進めていた睡眠薬を完成させて服用すると、その晩は眠ることができた。
だが、それはどこか浅く、心が落ち着かない眠りだった。
陛下に抱きしめられて眠っていた日々とは、まるで違う。
その事実に気付いた途端、胸がまた苦しくなる。
――このままじゃ……いけないわ……。
私は、この王宮に……いつまでも甘えていてはいけない。
もっと、自分で……何でもできるようにならなくては……。
その日から、ユリアはさらに訓練に励んだ。
そして胸の奥で、ある決心を固めていた。




