100 再び立つために
その日からユリアは、毎日欠かさず訓練を続けた。
許可を得て庭園へも通うようになった。
訓練の成果もあり、左手は少しずつ動くようになってきた。
しかし、自分の力だけで車椅子を漕ぎ続けるには、体力も筋力もまだ足りない。
結局、庭園以外の移動では、誰かに車椅子を押してもらうしかなかった。
――もっと……もっと、自分で出来るようにならなきゃ……。
順調に見える訓練とは裏腹に、ユリアの夜は荒れていった。
眠れない日々が続き、意識を閉じても、心は休まらない。
そんなある日、ユリアの元をセルビアが訪ねてきた。
「ユリア様、ご無沙汰しております。お身体の具合はいかがですか?」
「お務めご苦労さま、セルビア。ほら……左手、ずいぶん動くようになってきたのよ」
ユリアは微笑みながら、まだ震えの残る左手を持ち上げてみせる。
「……頑張っていらっしゃるのですね」
そう言った後、セルビアは一瞬言葉を探すように間を置き、静かに問いかけた。
「……ですが、ユリア様。夜は……眠れていらっしゃるのですか……?」
その一言に、ユリアの胸が小さく跳ねた。
「……ええ。大丈夫よ」
ユリアはセルビアから視線を逸らし、短く答える。
「お薬は……飲んでいらっしゃいますか?」
「……少しね。ただ、この国のものは……私にはあまり効かなくて……」
クリックに処方してもらった睡眠薬は、確かに飲んでいる。
けれど、眠りは浅く、すぐに途切れてしまう。
「でも、左手が動くようになってきたから……前みたいに、自分で調合して飲もうと思っているの。だから、心配はいらないわ」
ユリアは、ユーハイム国で戦争に参加していた頃のことを思い出していた。
不眠に悩まされた夜、決まって自分で調合した薬を飲み、無理やり眠っていた日々。
「……そうでしたか。……眠れない夜は、無理に一人で耐えなくてもよろしいのですよ」
セルビアは小さく息を吐き、穏やかだが強い口調で言った。
「訓練も、あまりご無理なさらないでください。ユリア様は……頑張りすぎです。その状態で訓練を続ければ、かえってお身体を壊してしまいます。訓練は、一気に詰め込めば良いというものではありません。休息を取りながら、丁寧に積み重ねることが、何より大切なのです」
そして、少し言いにくそうに付け加える。
「本日、陛下が長期視察からお戻りになると伺っております。……そのようなお姿をお見せすれば、陛下もきっと心配なさいます」
「……」
ユリアは黙って、セルビアの言葉を受け止めていた。
「も、申し訳ありません……出過ぎたことを……」
「いいえ」
ユリアは首を振り、静かに答えた。
「貴方の言う通りよ。……少し、焦りすぎていたみたい。ありがとう」
――そうだ。
皆が助けてくれているのに、私は一人で先へ行こうとしていた。
セルビアだけでなく、アリシアも、クリックも、皆が体調を気遣ってくれている。
少し……立ち止まる勇気も必要なのかもしれない。
その日の夕刻、エルフナルドが王宮に帰還した。
そしてその夜、ユリアの部屋に彼が訪ねてきた。
ユリアが目を覚ましてから数日後、エルフナルドは長期視察で王宮を離れていたため、二人が顔を合わせるのは、約一ヶ月ぶりだった。
「ユリア、久しぶりだな。……顔色が、あまり良くない。セルビアの言っていた通りだな……」
目元の隈に気づき、エルフナルドは眉を寄せる。
「ご公務、お疲れ様でございます。……明日からは、もう少しゆっくり訓練するつもりです」
ユリアはベッドに座ったまま、深く頭を下げた。
「ああ。そうするといい。訓練しない日があっても構わない。……体力を戻すのも、立派な訓練だ」
そう言うと、エルフナルドは部屋を後にした。
――まずは、眠らなくては……。
ユリアはベッドに横になり、自分の手を見つめた。
――明日、薬事室で睡眠薬を作ろう。
この手で、どこまで出来るか分からないけれど……。
数時間後、ユリアの部屋に小さなうめき声が響いた。
この一ヶ月、幾度となく繰り返されてきた夜だった。
――お前は、毎日子種を注いでやっているのに、子も身籠れないのか?
――やめて……痛い……助けて……。
軟禁されていた日々の記憶が、容赦なく蘇る。
「……やめて……助けて……」
眠りの中で、ユリアは泣きながら呟いた。
荒い息とともに、涙が頬を伝う。
日付が変わる頃、エルフナルドはユリアの様子を見に来ていた。
部屋の前で、微かなうめき声を聞き取り、慌てて中へ入る。
ベッドの上で、ユリアは苦しそうに身をよじっていた。
エルフナルドは、アリシアから聞いていた。
――夜、ほとんど眠れていないこと。
眠っても、すぐにうなされてしまうこと。
大粒の汗が滲むユリアの額に、思わず指を伸ばし、そっと拭う。
すると、ユリアの眉が小さく動いた。
「……ユリア?」
返事はなかった。
だが、震える手が、エルフナルドの手を掴んだ。
その瞬間、険しかった表情が、わずかに緩む。
うめき声も、次第に収まっていく。
エルフナルドはそっと背を撫で続けた。
ユリアが静かな寝息を立て始めるまで、ずっと。
夜明けが近づき、ユリアが身じろぎを始めたのを見て、
目覚めた時に驚かせぬよう、静かに手を離し、部屋を後にした。




