272 復讐の天秤(5/5)
ちょうどそのときだった。
――ネメシスの持つ天秤が、大きく傾いた。
「馬鹿な……!?」
均衡を司る女神ネメシスの天秤は、人がおのが分を超えた幸福を享受し、傲慢に振る舞うとき、天罰が下るのだとされる。
右側に傾斜していた天秤が大きく揺れ、均衡を取り戻す。
「この者は三度に渡って傲慢な振る舞いに出た! だのに、なぜ……!? ええい、やめよ! 天秤を揺り動かすのは誰だ!?」
その狼狽ぶりに、バリガントがかすかに苦笑した。
「お前が生み出した復讐だ。受け取れ、ネメシス」
――かくして、復讐の天秤は、彼の方に傾いた。
手にしていた【アイギス】にひとにらみされ、ネメシスが完全に動きを止める。石化し、動けないネメシスを、バリガントは携えていた巨大な盾で叩き割った。
さらに、大量の蝶々が宙に身を躍らせる。魔力のきらめきを強く残しながら、ネメシスの全身を――いずれの手品を用いてか――切断し、粉々に打ち砕いた。
のみならず、背後に大きな空間の亀裂が生じる。翼に似た雷撃がほとばしっているのは、神々がこちらの次元とあちらの次元を跳躍するときに生じる摩擦によるものと言われている。つまりあの空間は、ここではないどこかに繋がっている。
「お、のれぇ……っ! 呪ってやる! 貴様らに我の呪いをくれてやる……!」
見るも無惨に打ち砕かれた石像は、石化の力を上回る魔力を放出しつつも、まともに身動きが取れないようだった。真っ二つになった半身で、ガタガタとみじめったらしく震えながら、呪いの言葉を紡いでいく。
……ネメシスの注意は完全にバリガントと、過剰な殺傷力を有する蝶に向けられている。こちらの姿はまったく認識できていないようだ。完全な死角からの一撃であれば、いかな神とて防ぎきれぬ。魔力の多寡はこの際障害とならない。現状を瞬時に把握して、ディオールはつい、手が出てしまった。
次元の狭間に押しやるための魔術を解放する。
「【落ちろ】!」
神々にしてみればまったく脅威にもならないような一撃。
しかし、奥に押し込める直前、ネメシスが絶叫した。
往生際悪くほとばしる雷撃がいくつもの蝶を蹴散らしたが、ついにネメシスは転落し、奈落に転がり落ちていくかのように、暗い穴に消えていった。
倒れるその瞬間、天秤が傾き、その上に載せられていた丸いものも同時に転がった。
「ハディヤ!」
叫んだバリガントが、まっすぐに同じ次元の穴へと突っ込んでいこうとする。
――いったい何を……!?
落ちればきっと助からない。分かるだろうに、まっすぐに落ちた球を拾おうとしている。
慌てて止めようと、逆側に引っ張る魔術を放ったが、彼は【アイギス】を放り投げて魔術を打ち消し――
同じ穴に落ちていった。
「バリガントさん!」
どこからか、リゼの絶叫が聞こえる。
ばさりと姿隠しのマントを頭から落とし、閉じられた異空間への亀裂を前に、呆然と立ち尽くしている。
「ど、どうして……?」
半泣きの呟きは、誰にも拾われずに、大広間の静寂に吸い込まれて、消えていった。
◇◇◇
お人形さんとネメシス様、それからバリガントさんの関係は、ディオール様が説明してくれた。
聞いているうちに、わたしが知っていることとも合致することが分かってしまい――
分かったら、わたしは怖くなってしまった。
「わ、わた、わたしが、よ、よく話を聞かずに、玉を天秤に、載せたりしたから……」
バリガントさんはハディヤさんみたいに喋るあの人形を追いかけて、穴に落っこちてしまったのだ。
「それは違う。ああしなければ、この場にいた全員がネメシスに殺されていた」
「で、でも、た、玉が、玉を、玉……あ、そうだ! 穴、穴を掘ったら、もいっかいネメシス様のところに繋がって、それで」
「無理だ、落ち着け」
「いやですぅぅぅ! やってみないと分からないですぅぅぅ!」
わたしは近くのお部屋から採掘道具を回収して、スコップで、延々とその場を掘り始めた。
「リゼさん、気持ちは分かるけど、それは無理っしょ……」
「や、や、やってみないと、わ、分からないですぅぅぅぅ!!」
止めに入ろうとするふたりを振り切って、わたしはそのあと、ずっと穴を掘っていた。
ある程度掘ったら【生活魔法】の【複製】を起動。
これは祝福魔法の停止と一緒にバンされてた魔法なのだけど、思わず発動させたら使えてしまった。
わたしは生活魔法さえ使えれば、あらゆる作業を自動化できる。
土を横に避ける動作などもまとめて【複製】すると、わたしの人力の二十倍でどんどんサクサク土が掘られていった。
「うお、すっげ……なあ、ディオール、リゼさんお前よりつよくね?」
「脳筋基準ではそうなんだろう。ついでにリオネルよりも強いことになるが」
「いやそれは争う余地ねえよ。俺よりはるかにつええよ……何なんだよこの土掘り性能。冬だけ雪かきに来てほしいんだけど」
……なぜかふたりとも、わたしと一緒にスコップで土を掘ってくれた。
「……しかし、魔法が戻っているな」
「っぽいね。俺も【雪かき】使えたわ」
「ネメシスが消えた影響か?」
「全部使えるようになったん? ちょっと試してみろよ」
ふたりのそんな会話を聞き流しながら、作業を続けること半日ほど。
わたしはとうとう、床を掘り抜いた。
ズボッ、と片足が抜けて、あ、と思う。
床を掘りすぎて、下の層の天井を貫いたのだと気づいたときには、すでに穴から真っ逆さまに落っこちていた。




