269 復讐の天秤(2/5)
「違う違う。俺が呼んだんだよ。久しぶりじゃん、バリガント」
「狂獅子隊長」
リオネルは人のいい笑みを浮かべ、それからハルバードの先端にある鉾を喉頸に突きつけた。
「知ってっかな? 神官たちが言うことにゃー、ネメシスちゃんたらバッチバチバチクソ怒ってんのよ。『魔獣を傷つけた大逆人の首を差し出せ』って、そればっかりキーキー喚いちゃって大変らしいんだわ」
あらかじめリオネルにも簡単に犯人が彼らしいとは説明してあったので、すんなり状況が呑み込めているようだ。
「さっそくで悪いんだけど、ゾンビを操って王国を争乱に陥れた罪、その首で償ってもらう」
「あと少し、待ってもらえないだろうか」
痛む頭を抱えているがごとくに側頭部を人の手でさすりつつ、視線を崩れた方の手に向ける。握っては開く魔獣の手のひら。神経が接続しているのだろうか。そうだとしたらアゾット家の技術をはるかに凌ぐ。神々の力でしか成し得ない奇跡。
「約束する。私は目的を果たしたら必ず消える。その前に、できるだけ早くこの坑道から離れてほしい。……一級殺しどのも、なぜ婚約者を連れてきた? あのお嬢さんを危険に晒すのは、君の本意ではないだろうに」
ディオールはとっさに後ろを振り返った。まさか、こっそり侵入してきたのか? 来るなと厳命してあったのに! あたりを探ったが、どこにも見あたらない。
必死な様子を面白がるように、バリガントがかすかに笑った。
「外の部屋をうろついているようだ。生物はいないから危険はないが、機械は稼働中だから、変なスイッチを押さないように注意してやってくれ」
「なぜそれが君に分かる?」
バリガントは答えなかった。淡々と自分の言いたいことだけを続ける。
「お嬢さんに伝えてくれ。『ネメシスは夜の娘』だ。【姿隠しのマント】で覆えば、彼女からは認識できない。坑道から出て、マントで身を隠し、すべてが片づくのを待ってくれ。さあ、行くんだ――」
彼がまだ人の形をしている方の手で引き寄せたのは、見えない何かだった。
はらりと落ちる不可視の布――それは本来、リゼだけが作れるはずの、奇跡の産物。
姿隠しのマントに包まれていたオルゴールの箱のふたが押しやられ、そっと開かれる。
歌声が箱からこぼれ落ち、空間に満ちる。ただ耳にしただけで、勇敢な騎士たちのことごとくが無秩序な恐慌に陥った、甘く哀切な女の歌声。墓場で流れているからには、てっきり弔う者の嘆きを込めた挽歌かと思えば、歌詞は生命と労働への希望に満ちていて、まったく場にそぐわなかったあの歌。
頭蓋骨に伝導し、脳髄まで侵襲するかのような力強い歌声に、恐れ知らずで鳴らしたリオネルもわずかに戸惑いを見せた。
「おい、ディオール、何だよこれ」
「マントで身を隠せ! 撤退だ。リゼを見つけて逃げるぞ」
「待てよ! こいつの首持って帰らねーと!」
リオネルはためらいなくハルバードの鉾を振り下ろした。切っ先が首に届く寸前で阻んだのは、どこからともなく現れ出た、白く美しい蝶だった。
一匹の蝶が、ひらりと飛び乗った拍子に、鉾がぱきりと割れ、まっぷたつになる。
なおもひらひらと集まってくる蝶を嫌悪してか、リオネルは大きく後退した。
「君の目的はなんだ、バリガント! あの日、あの墓場で女神を呼び寄せて、何をしようとしていた!?」
美しい歌声が頭も割れよとばかりに激しい振動を伴って響き渡る。この曲が終われば再びあのコアが起動し、あたり一帯に凶悪な魔獣の合成体がひしめく地獄絵図が誕生するのだろう。一刻の猶予もない、早く脱出しなければと焦る一方で、彼の目的だけはどうしても聞いておきたかった。
「ネメシスは幸福を再分配する平等の女神でもある」
低い声での返答は、ぞっとするほどの暗さを帯びていた。
「ならばなぜネメシスは私から奪うばかりなのだ。妻を奪い、形見を奪い……呼び戻した魂のかけらさえも奪っていった……」
耳を疑った。そんなことが可能だとはとうてい思えないが、アテナの使い魔を自称するフクロウや、失われた技術であったはずのドワーフの遺産を稼働させた手腕、リゼの姿隠しのマントをどうやってか手にしている事実などが、あるいはもしかして、という気持ちを起こさせる。
「再分配が必要だ。私の天秤に置かれた不幸と不平等は、ネメシスの権能で戻させてもらおう」
何もない場所から急に鬼火が現れ、部屋全体を覆い尽くす。
不可視の布が燃え尽き、覆い隠されていた【ティアマトの血】が現れた。赤い星々の海が瞬き、命なき活動者たちが、活動するための身体を周囲から寄せ集める。サーカスで仕込まれた哀れな芸を披露するがごとく、のそりと奇妙な運動をし始めた。
「さあ来い、復讐の女神……今度こそ決着をつけてやる」
バリガントのつぶやきは暗い情念に満ちていた。
すぐそばにあった女神像のヴェールがばさりとはぎ取られ、その下にあった像が露わになる。鞭を手にした苛烈な女戦士の像は、片手に天秤を持っていた。
ネメシスだ。
依り代として用意されたのだと、とっさに直感する。神々を降ろすための器なのだと思って見てみれば、像のあちこちにそれらしい細工の痕跡がいくつも残されている。膨大な量の魔力を帯びた巨大な魔石。伝承を正確に再現したシンボルの数々。
その像に、ひらり、と蝶が飛び降りた。
蝶が発する白い光線は、膨大な魔力を密にした刃で、女神像の最後のピース、瞳に円を刻み入れ、美しく磨き上げた。精巧な目が備わると同時に、世界のどこかで何かが切り開かれた感覚がしたが、何なのかと聞かれると説明できない。この世のどんな魔法にも成し得えないであろう現象で、ディオールの見識にその奇跡を起こす魔術は存在しなかった。
膨大な魔力と、それを構成する緻密な魔術とが、石を削り出すあの蝶の動きひとつひとつに込められている。妖しくも恐ろしい現象に意識を取られ、何が起きているのか見定めたい、と思ってしまったことが、致命的な逃げ遅れにつながった。




