244 復讐の女神(2/2)
通常の女性とはまったく違う、白い燐光を帯びている。神聖な存在を思わせる白い翼。手には鞭を持っている。
その鞭を、軽く振るった。
凶悪なまでの白い光が凝縮するのを目にした瞬間、ディオールはとっさに、張れるだけの防御結界を展開した。
……貫通しなかったのは、幅を広く取って、広範囲をなぎ払ったからだったのだろう。一撃で赤い星々が半分以上も壊され、辺りは急激に暗くなった。ついでに、瞬間的にではあるが、昼のような光で満たされたおかげで、戦場の配置も把握できた。
――人間ども……
美しい女の声は、頭の中に直接響いてくるようだった。
上位存在が口をきいたのだ。
そして再び、鞭が振るわれる。
不気味に蠢く魔獣の寄せ集めは、それでほとんどが動きを止めた。何度壊しても元通りになるあの厄介なゴーレムのコアが、女神の鞭の一振りで壊れたのだ。
――誰ぞ、名乗り出よ。哀れな獣に生命の混沌を注ぎ込み、尊厳を冒涜する不届き者め! 成敗してくれるわ!
高位魔獣の生命倫理。その侵犯行為は、ルキア教の神官が激怒する禁忌中の禁忌だ。それが、女神の怒りに触れたとでもいうのだろうか。だとすれば少し状況が見えてくる。
二度も攻撃を拝めたおかげで、どんな種類のものかも、理解できた。密度が極限まで高められた魔力の塊だ。単純だがもっとも対処が難しい。魔力の量はそのまま力の量だ。ディオールが数多くの騎士をものともせず戦場に立っていられるのも、魔力の量で勝っているゆえである。
――どうする?
自分が相手よりも魔力量で劣る、という状況は、これまでに一度も経験してこなかった。冷や汗が噴き出る。いつ殺されてもおかしくはないが、上位存在とて人間界に降りてくる以上は物理法則の制約を受ける。そして、下位の世界の法則について、上位存在が気にかけることはまずない。邪魔であればいつでもねじ曲げられるからだ。
つまり、上位存在が煩わしく感じて、魔法の理を変更するまでの間は、魔術も一応は通用する、ということになる。その隙をついて人間の世界から退場させられた神も、多少いないでもないのだ。理の変更を決意させる前に、どうにかして追い払うことはできないものか。
――我が怒りを知るがいい!
『神の怒り』の具現である鞭が頭上高く振り上げられる。
振り下ろされようとした瞬間、今度は、光の発生源の手前に防御結界を置いた。
一瞬で削り取られ、結界が吹き飛ばされる。
凄い密度の魔力だ。およそ人間が受け止めきれる力ではない。
しかし威力を大幅に減じつつ、ほんの一秒ほどの猶予を作ってやったおかげか、騎士達のほとんどが直撃を避けたようだった。
また新たに光が生み出されようとしたところに、二本の剣を手にした騎士が、白い燐光を帯びた女型の上位存在に斬りかかった。
女が放つ白い光を剣で切り裂いて、肩から斬りつける。
女は煩わしそうにしつつも、傷一つ負わなかった。
――……我に手向かう気か? 無駄だ。
古めかしいが、古語としても正確とは言えない文法。神々が用いる言葉はあくまで下位の者達のために間に合わせで用意するものであり、意味も本当には理解していない、とどこかの記録で読んだ。およそ現実味が湧いてこないまま、つらつらと思い出す。
――均衡を崩す者どもよ、汝らに裁定は下った!
女が手にした鞭で地面を打つ。
鞭。鞭と関連付けて語られる上位存在は候補が絞られる。たとえば裁定者の女神は天秤か、剣を持つ。しかし彼女はそのどちらも持っていなかった。
怒れる女神、幸運の正しき分配者、正義の代行者。
――我が名は復讐の女神ネメシス。
――傲慢な人間ども、報いを受けよ!
とっさにディオールは、どうやって王子を逃がすか考えた。背を向けて遁走して、逃げ切れるものだろうか。いや、やるしかない。どんな手を使っても。
女神が振りかぶり、鞭を振り下ろすたびに、光が生まれ、周囲をなぎ払う。ルールとしては単純極まる。双剣の騎士が剣で斬りかかり、鞭が振り下ろされる前に横薙ぎにした。
「殿下、お逃げください」
「言われなくても。君たちふたりも、私のことはいいから」
それができれば苦労はない。
風使いの魔術師に同伴を任せ、その場に留まる。時間を稼がなければ。力が及ぶ範囲を考慮するに、消失させられた結界の範囲外までは出てもらう必要があるのだ。
双剣の騎士は、女神を抑え込んでいる。押していると言ってもよかった。風を切る音も鮮やかな豪剣が女神の行動を封じている。一撃一撃は決して軽くないのに千変万化の技が次の予測を阻み、女神をその場に磔にしていた。あの剣技には見覚えがある。サントラールの騎士団長だろう。
それだけの猛攻を受けながら、女神は傷一つ負っていなかった。
手を貸そうにも、高密度の魔力相手に、魔術師がやれることはほとんどない。雪玉で岩を打っても砕ける道理はない。
それに――
――ええい、うっとうしい! 退いておれ!
女神が大喝した瞬間、双剣はぴたりと動きを止めた。使い手が驚いて柄を手放す。
双剣は空中に固定されたまま、動かなくなった。
文献でだけ目にしたことのある現象だ。多くの神々は、気まぐれに世界の法則を塗り替える。この女神が超常の力で、双剣の運動を永遠に停止したのだろうと察せられた。
魔術はまだ使えるだろうか。おそらくはそうだろう。たとえば魔力の循環そのものを凍結させれば、女神もここには留まっていられなくなる。とはいえ、対策を取られる恐れがある以上、小出しに力を見せるのはまずい。
――名乗り出て、我が前に懺悔せよ! さもなくばまとめて誅殺してくれるわ!
その瞬間だった。
いつの間にか途切れていた歌声が、再び響き渡った。どこからともなく、歌う人の姿もないままに。
――その歌を止めろ! 耳障りだ!
女神の喝をあざ笑うように、ひらりと軽やかに、一匹の蝶が頭上を舞った。
魔力を帯びた蝶。これも魔獣の死骸なのだろうか。
正体不明の蝶を前に、女神の反応は劇的だった。
絶叫が響き渡る。
――やめろ! 何が【万能の魔道具】だ! 人の手で生み出せしものの何が万能であるものか! 不敬にもほどがあるわ!
女神は何かと対話をしているようだった。あるいは蝶が相手なのだろうか。
一匹だった蝶は、瞬く間に数が増えた。どこから生まれているのか、するりと風に乗って軽やかに――いや、風から生まれ出でたかのように、この場に自然と紛れ込んできた。暗闇で光輝く羽を持った数十、数百もの蝶が、一斉に女神めがけて舞い降りる。
ひとり芝居のように腕を振り回す女神に、虫が集る、集る、集る。寄り集まった蝶は一斉に羽を開いた。翅裏――鮮やかな燐光を発する羽の裏側がいっぱいに伸ばされ、丸い模様が露わになる。
円がふたつ重なった模様は、どこか動物の目玉模様にも似ていた。
目玉がカッと白い光を帯びる。魔力が生まれ、まっすぐに女神の身体に突き刺さった。
再びのたまぎるような大絶叫。女神に傷を負わせるほどの力があんな小さな蝶に宿っているようには見えないため、ディオールは呆然と見守ることしかできなかった。
何十という蝶から、目もくらむような激しい白光が立て続けに起こる。魔力の刃に切り裂かれ、女神は見る間に魔力を失っていった。
その様は、びっしりと蝶にたかられて蜜を吸われ、枯れる大木を思わせた。
よろめき膝をつく女神が、なおも身体から蝶を追い払おうと無駄な努力をしながら、怨嗟の声を張り上げる。
――容赦せぬぞ、人間ども!
女神は鞭を振りかぶり、天上に向けて放り投げた。
巨大な雷鳴に似た唸りがし、闇夜が一瞬、昼の明るさを取り戻した。
そして、激しく明滅する光芒が、膨大な魔力の密度を伴い、夜空から流星群のごとく降り注いだ。
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