第4話 元彼に恋愛相談
会社の松岡さんに食事へ誘われたのは、父の誕生日会の翌週だった。
営業部の人で、試作会議ではよく一緒になる。こちらの資料に変更が出たときも、客先への確認をすぐにしてくれた。
帰りのエレベーターで、新しくできた洋食屋の話になった。
「藤崎さん、ああいう店、好きそう」
「好きです。メニュー見ただけでお腹空きました」
「じゃあ、今度一緒にどうですか。来週とか」
一緒に、のところで彼はこちらを見た。
私は少し考え、金曜なら、と答えた。
嫌な人ではない。話していて楽しいし、お店も気になっていた。
一度ご飯へ行ってみてもいい。そう思った。
その話を母にしたのは、日曜の午後だった。
実家から、郵便物が届いていると連絡があった。住所変更から漏れていた会員誌を取りに帰り、ついでに夕飯を食べることになった。
母は台所で玉ねぎを切っていた。
「金曜、会社の男の人とご飯行くから、その前に取っちゃおうと思って」
「へえ。どこ?」
「駅前の洋食屋。新しくできた所」
「あそこね。テレビでやってた。混んでるんじゃない?」
そこで会話は終わった。
相手が誰か、交際するのか、根掘り葉掘り聞かれなかったので、私は油断した。
夕方、カレーの匂いがする台所に、おばさんが枝豆を持ってきた。
桐谷家ではその日、おじさんと颯太が物置を整理していたらしい。
母が「鍋いっぱい作っちゃったから」と声をかけ、食卓が六人になった。
我が家のカレーは、鍋の大きさで人数が決まる。
私は颯太の向かいに座った。
彼のTシャツの袖には、うっすら埃がついていた。
「何片づけたの?」
「使ってない釣り竿。捨てる予定だった」
「予定?」
「父さん、一本ずつ思い出話するから」
おじさんが、今度は枝豆を持って釣りの話を始めた。
颯太の袖の埃は、捨てなかった釣り竿を戻したときについたらしい。
私は笑って、福神漬けの器を渡した。
母はお店の話をおばさんとしていた。
新しい店は駐車場が狭いとか、先月できたパン屋は何時に売り切れるとか。
その流れで、私の金曜の予定も食卓に載った。
「菜月、あの洋食屋行くんだって。会社の男の人と」
「なんで言うの!」
母が驚いた顔をした。
「ごめん。言っちゃだめだった?」
「だめっていうか……」
そこまで重大な秘密ではなかった。
ただ、颯太の前で言われたくなかった。
そう思った理由は、私にもまだ分からない。
颯太のスプーンが皿の端で止まった。
母は「今度から言わない」と言って、水を飲んだ。
おばさんも店の話を父たちへ振り、恋愛の話にはしなかった。
私だけが、向かいを見ていた。
「……何」
視線に気づいた颯太が聞いた。
「別に」
「店、行くんだろ」
「うん」
「行けばいいじゃん」
普通の声だった。
私は、ちょうど口に入れたカレーを、いつもより長く噛んだ。
ご飯なので、そんなに噛む必要はなかった。
「そのつもりだけど」
「うん」
颯太が水を飲む。
私は福神漬けを足した。
すごく食べたいわけではなかったのに、山になった。
帰り際、母には「さっき、大きい声出してごめん」と言った。
「こっちこそ。人の予定、勝手に言わないようにする」
「場所の話はいいんだけど」
「そこ、線引き難しいから、自分で話して」
もっともだった。
私はカレーの保存容器を持って、自分の部屋へ帰った。
翌日の夜、颯太から連絡が来た。
『うちに藤崎って書いたふたがある。昨日の容器、ふた合ってた?』
台所で確かめると、私が持ち帰ったものには桐谷と書いてあった。
容器の本体は同じでも、ふたまで家族ぐるみにならなくていい。
『合ってるけど桐谷って書いてある。次、実家で替えよう』
『了解』
私は画面を見つめた。
そのまま終わればいいのに、指が動いた。
『行けばいいじゃんって何』
すぐ既読がついた。
『何が?』
『昨日の』
電話がかかってきた。
私は慌てて出た。
「文章だと分かんない。何の話?」
「会社の人と食事、って話」
「ああ」
「……もういい」
「何か、嫌な言い方した?」
責める声ではなかった。それで余計に、私の方が困った。
「別に。ずいぶん簡単に言うなって」
「俺、元彼だぞ。止める方がおかしいだろ」
その通りだった。
もう交際していない。私が誰と食事へ行っても、颯太には関係ない。
ただ、いちいち元彼だと確認されると、変なところが痛かった。
「止めてほしいって言ってない」
「じゃあ、どう言えばよかった?」
「それ、聞かれても困る」
電話の向こうで、颯太が息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
「俺も困ってる」
私は椅子に座り直した。
自分の皿に勝手に盛った福神漬けのことを思い出した。
颯太は、何も悪くなかった。
「ごめん。変なこと言った」
「いや」
「あの人、普通にいい人なの。仕事も頼れるし」
「うん」
「お店も行きたくて」
「うん」
短い相づちが二つ続いた。
私は膝の上のクッションをつまんだ。
「颯太に、あの人がどうか聞いても分かんないよね」
「会ったことないからな」
「恋愛相談する相手、間違えた」
「俺も、相談されてる気がしなかった」
そこでようやく、二人とも笑えた。
電話を切る前、颯太が「金曜だっけ」と聞いた。
「そう」
「あの店、予約できるならした方がいいと思う。通ると、よく並んでる」
「松岡さんがしてくれた」
名前を言うと、少し間が空いた。
「そっか。じゃあ大丈夫か」
颯太はそれ以上、何も聞かなかった。
金曜の食事は、楽しかった。
松岡さんは、以前旅行した所の話をした。私が県外で暮らしていた街の近くにも行ったことがあって、好きな店が一軒重なった。
ハンバーグは評判どおりおいしかったし、会計は相談してそれぞれ払った。
帰り際に、また行きましょう、と言われた。
私はその場で次の日を決めず、今日はありがとうございました、と伝えた。
次の週、松岡さんから休日の誘いが来た。
駅前のイベントへ、二人で行かないかという内容だった。
画面を見て、少し考えた。
食事は本当に楽しかった。それでも、休日も二人で会いたい、とは思わなかった。
颯太と比べて、どちらが上か決めたわけでもない。
曖昧に返すのは、失礼だと思った。
『お誘いありがとうございます。食事は楽しかったです。ただ、二人でお会いするのは、ここまでにさせてください。仕事ではこれまでどおりよろしくお願いします』
何度か読み直して送った。
松岡さんからは、了解です、こちらこそ、と返ってきた。
次の試作会議でも、彼はいつもどおり確認をしてくれた。私も、いつもどおり資料を渡した。
颯太に報告する必要はなかった。
けれど週末、彼からマスタード和えの分量を聞かれ、私は「前に自分で送ってきたじゃん」と返した。
『俺の方、トーク検索しても出ない』
『料理する人は勘でやってください』
『ひどい』
私は過去のメッセージを探して、転送した。
ついでに、洋食屋のハンバーグはおいしかった、と送る。
『行けてよかったな』
『うん。あの人とは、もう二人では会わないけど』
颯太は、しばらく入力しているようだった。
やがて、短い文が来た。
『それは、菜月が決めたことだから』
今度は、腹が立たなかった。
私が決めたことだった。
『うん』
送ると、すぐ次のメッセージが届いた。
『来月、祭り行く?』
私は自分のカレンダーを開いた。




