第3話 父親の誕生日
九月に入ると、母から父の誕生日会の連絡が来た。
父とおじさんは誕生日が四日違いで、昔から一緒に祝っている。大人の誕生日会なのに、ケーキには毎回ろうそくを立てたがる。
『来週の土曜、夕方から。来られる?』
私は勤務予定を確認してから、返信した。
『颯太も来る?』
『来る。お刺身買ってきてくれるって』
『分かった。私も行く。ケーキ買っていくね』
送ってから、携帯を伏せた。
颯太が来ると分かっていて、行くと答えた。
大げさに考えることでもない。父の誕生日なのだから、私が行くのは普通だ。
それでも、今年は誰の予定も避けていなかった。
颯太とは、お盆以来、何度か連絡を取っていた。
味噌漬けは少し焦げたらしい。弱火で焼く、と伝えたら「先に言ってくれ」と返ってきた。
代わりに教えてもらったじゃがいものマスタード和えは、簡単でおいしかった。
わざわざ実家を経由しなくても、話すことはあった。
土曜の夕方、ケーキの箱を抱えて帰ると、玄関には颯太の靴があった。
私は鏡をちらりと見てから、台所へ入った。
「おかえり。刺身、冷蔵庫に入れたいんだけど、どこ空いてる?」
颯太が大きなパックを持って立っていた。
「上。お母さん、煮物の鍋、丸ごと入れるから」
「ケーキは?」
「それも上……無理だね」
冷蔵庫の棚は、誕生日会の準備でいっぱいだった。
母が奥から顔を出した。
「ケーキ、桐谷さんち入れてきて」
「うちのケーキを?」
「うちで食べるんだから、どこに置いても同じよ」
私は隣へ行った。
おばさんが冷蔵庫を開けると、うちの鍋が入っていた。
「もう一個来てる」
「こっちは明日の分。煮物、いつも多いからねえ」
両家の冷蔵庫は、私の知っている頃より連携が進んでいた。
誕生日会は、父たちの乾杯で始まった。
私は日帰りなのでお茶。颯太も車で帰るので炭酸水だった。
ケーキを買うとき、父とおじさんの名前を二つとも書いてもらった。店員さんには子どもの合同誕生日会だと思われたらしく、可愛い動物の砂糖菓子が載っている。
「俺、これ、たぬきか?」
「くまだろ。そっちが俺で」
「じゃあ、うさぎが俺?」
父たちは砂糖菓子の担当を決め始めた。
母が「食べるならどっちでもいいでしょ」と言って、ろうそくを二本立てる。
「一本何歳?」
「一本一人」
颯太が声を出して笑ったので、つられて私も笑った。
食事の途中、仕事の話になった。
私が今週、商品の試作会議の資料を差し替えた話をすると、颯太が興味を示した。
「何で差し替え?」
「容器にラベル貼ったら、端が浮いちゃって。形は決まってたんだけど、貼る位置を変えることになった」
「実物に貼って初めて分かるやつか」
「そう。紙の上だと、全部きれいなのに」
颯太はうなずき、取り皿の縁を指でなぞった。
「うちも、数値は規格内なのに、組み合わせるとうまくいかないことある」
「どうするの?」
「まず、どこで引っかかってるか探す。そこが一番長い」
もっと聞きたかったけれど、母が私の皿に煮物を足した。
「菜月、仕事の話すると食べない」
「食べてる」
「人参が動いてない」
私は人参を口に入れた。
颯太が、会社でもそうなのか、という顔をしている。
会社では自分で食べる。母がいると、つい言い返したくなるだけだ。
ケーキを切る頃、おじさんが古いアルバムを持ってきた。
物置を片づけていて見つけたらしい。
父たちのキャンプの話で、当時のテントは大きかったか小さかったか、確認が必要になったのだ。
「ほら、大きいだろ」
「人が前にいるから分からない」
大人四人がアルバムを囲む。
私はお茶を淹れながら、横から見た。
古いテントの前に、小さな私と颯太が立っている。
二人とも、泥で汚れた長靴を履いていた。
「これ、菜月、鼻水出てるな」
父が指さした。
「捨てて」
「テントが一番よく写ってる」
「テントのために残さないで」
「俺、これ持ってる」
颯太が横から言った。
「なんで?」
「うちにも焼き増しある。たぶん」
「じゃあ、そっちも捨てて」
「俺は結構よく写ってる」
確かに颯太は笑っていた。私は鼻の下を拭く寸前みたいな顔をしている。
写真は容赦がない。
ページをめくると、父が肉を落とした写真が出てきた。
次はおじさんが椅子から転げた写真。母たちは、そこで急に盛り上がった。
「これ、なんで撮ったんだよ」
「ちょうどシャッター押したら落ちたのよ」
「撮り直さないのか」
「こっちの方が面白いじゃない」
私の鼻水だけが被害者ではなかった。
小学校の運動会のページには、颯太と私が並んでお弁当を食べている写真があった。
隣の男の子は、今の颯太よりずっと丸い顔をしていた。
当時、私たちは友達だった。近所だから一緒にいただけの日も、颯太だから一緒にいたかった日も、たぶん両方あった。
写真からは見分けられない。
「この年、俺、リレーで靴脱げた」
「覚えてる。片方だけ靴下で走ってた」
「菜月、笑いすぎて先生に怒られてた」
「あれ、颯太が靴拾って掲げたからでしょ」
私は写真を閉じる母の手を見た。
懐かしいのは本当だった。でも、今日、颯太の仕事の話を聞いているときの方が、もっと続きを聞きたかった。
帰り際、隣の冷蔵庫にあった余りのケーキを取りに行った。
颯太も自分の分を受け取りに来た。
おばさんは箱に一切れずつ詰めながら、どちらがくまを持って帰るか聞いた。
「お父さんたちが食べたんじゃないの?」
「甘すぎるって。二人とも」
「何の担当決めてたんだろ」
私がうさぎを引き取ると、颯太はくまを取った。
玄関を出てから、彼が少し声を落とした。
「今日、菜月来るって聞いたから、俺も早めに来た」
箱を持ち直す指が止まった。
「……刺身、冷やしたかったから?」
「それもある」
「ほかは?」
「盆のとき、話、途中だったし」
何の話か聞こうとして、やめた。
車のことでも、仕事のことでも、私の県外の暮らしでもいい。
「私も、来るって聞いた」
「うん」
「だから、ケーキ六人分にした」
「そこは俺いなくても買うだろ」
少し無理がある言い方だった。
颯太が笑ったので、私も笑ってごまかした。
その夜、颯太からくまの写真が届いた。
小皿の上に、砂糖菓子だけが載っている。
『これは明日食う』
私はうさぎを撮って送った。
『こっちも。お父さんたちに捨てたか聞かれたら、証拠にして』
『食べた証拠にはならない』
『品質管理、細かい』
送ったあと、ケーキを食べながら、さっきの会話を思い出した。
刺身だけではなかったらしい。
私はそのことを、誰にも言わずに少し喜んだ。




