銀髪の男 2
全身から汗が噴き出す。心臓が嫌な鼓動を刻んだ。
無意識のうちにこぶしを握ると、男は笑みを浮かべて両手を挙げた。それは『敵意はありません』と仕草で伝えようとしているかのようだ。
浮きかけた腰を戻す。この男の正体はわからないが、声をかけてきたということは目的があるのだろう。
「私が本当にその人だったと仮定して、一体なにが目的でしょうか?」
声の震えを必死に抑え、マリーヒェンは男を見つめた。にらみつけるような形になってしまったのは、警戒心の表れだ。
男は笑みを浮かべる。人懐っこく見えるのに、得体のしれない笑みだ。つい、ごくりとつばを飲み込んでしまう。
「安心して。俺は貴族ではないし、婚約破棄の場にいたわけじゃない。ただ、知っているだけだから。目的も特にないよ」
この男はマリーヒェンが婚約破棄され、実家を勘当されたことも知っているようだ。
手を組んでその上に顎を載せ、男はマリーヒェンの顔を覗き込んでくる。美しい顔立ちに人懐っこい笑み。この男はきっと、他者の懐にいとも簡単に入り込む。油断したなら、小さな隙間から心に入り込み、巣食うのだ。
世の中には天性の人たらしと呼ばれる部類の人がいるが、この男はその部類だ。質が悪いのは、意図的に誑し込もうとする思惑が見え隠れしているところだろうか。油断すれば、すぐに相手のペースに呑み込まれてしまいそうだった。
「あなたは、一体どちらさまでしょうか?」
強張った声で問う。
ほかの人の話し声がどこか遠くのものに感じる。静かにじっと見つめ合い、男の正体を視線で探った。
「その質問の意図がわからないね。俺がどちらさまであろうとも、関係ないだろう?」
「いいえ、関係あります。先ほどの目的がないということも、信じられません」
「随分と警戒されたものだね。まぁ、当然か」
肩をすくめた男が、立ち上がる。背丈はマリーヒェンよりもずっと高い。彼はマリーヒェンを見下ろし、その場でくるりと回った。男が身に着けた黒い上着の裾がひらりとはためく光景は、自然と目を奪う。
「俺はいにしえの魔法使い。キミの義理の妹と同じ存在さ」
一度深く頭を下げ、男は顔を上げた。
男のエメラルドグリーンの瞳が、マリーヒェンを射抜く。
あまりに美しい瞳と動きに、マリーヒェンは見惚れていた。しかし、はっとして首を横に振る。
「ありえないわ。だって、魔法使いは滅びたのだもの。この大陸にはリーゼしかいないはずよ」
よその大陸には未だに魔法使いが存在するという。だが、人づてに聞いた話では、よその大陸出身の魔法使いも、この大陸に足を踏み入れた瞬間魔法が使えなくなるらしい。ゆえに、遠い異国から魔法使いを呼ぶことはできなかったと語られている。
「魔法使いを偽ることは大罪よ。もしも、王家にバレたりしたら……」
魔法使いを妄信するヘンリクによって、死罪を言い渡されるかもしれない。
決してこの男の身を案じているわけではないが、自分と話していた人物が死罪を言い渡されるなど寝覚めが悪い。
「ははっ、キミは面白い子だね。一つヒントをあげよう。周りを見てごらん」
男がわざとらしく手を動かし、周りを見るように促した。
周囲の人間は、だれもこちらを見ていない。気に留めてもいない。
「俺がこれだけ大きく動いているのだから、注目を集めてもおかしくないだろう? でも、だれも気に留めていない。これは俺が幻覚魔法を使っているからさ。幻覚魔法は人の意識を意図的に逸らすこともできるんだ」
彼の言うことはもっともだ。
これだけこの男が大きく動いているのに、だれもこちらを気に留めていないのは明らかに違和感がある。
なら、この男は本当に魔法使いの生き残りなのだろうか? けど、まだ信じられない。
「どうやら、信じ切れていないご様子だ。せっかくだし派手に魔法を披露してあげたいけど、危ないからやめておこう」
男は笑いながら椅子に戻った。彼が小さくなにかをつぶやくと、手の中にぽんっとオレンジ色のガーベラが現れる。
「これ、マリーヒェンにあげるよ」
「……どういうつもりなの?」
押し付けられ流れで受け取ってしまったが、先ほどの行動にもいろいろと不可思議なことがある。
マリーヒェンには今、なにもないところからガーベラが現れたように見えた。
「おや、お兄さんはもしかして手品師かなにかかい? さっきのは見事だったよ」
不意にカウンターのほうから朗らかな声が聞こえてきた。そこには中年の店主がおり、にこにこと笑って男に声をかける。
「違いますけど、似たようなものですよ。俺は気ままな旅芸人なんです。手品以外もできますよ」
「へぇ、不思議なものだね。まるで魔法みたいだったよ」
中年の店主は「いいものを見せてもらったサービスだ」と言って、男の前になみなみとジュースの注がれたグラスを置く。
男は「ラッキー」とつぶやいて、グラスを手に取った。もちろん店主に礼を言うことも忘れない。
「旅芸人なら知らないかもだけど、王都では一年ほど前に魔法使いが現れたんだよ」
「その件ならすでに耳にしましたよ。というか俺、魔法使いを一目見たくてはるばる王都まで来たもので」
「そうなのかい。まぁ、会えるかどうかはわからないよ。なんといっても彼女は王太子殿下のお気に入りだからさ」
そこまで言った店主はフロアの客に呼ばれ、カウンターを出ていった。
店主を笑顔で見送った男は、サービスのジュースを一気に飲み干す。そして、もう一度マリーヒェンに視線を向けた。




