8話 日常の先
感情が、抑えられなかった。
愛しさが憎しみに変わり、愛情が憎悪となり、優しさは執着へと変わり、自分の物にならない彼女が許せなくなって、どうしても欲しくなって――。
そうとしか、言いようがなかった。
彼女を幸せにしたい。
これはそういう気持ちなんだと、必死に自分に言い聞かせてきた。
けれど、そうじゃなかった。
自分の本音はそんな綺麗な物ではない。
ただ自分だけは他の奴と違って綺麗なんだと思い込みたかっただけ。
自分もまた、嫌っていた女たちと同じくドロドロに濁り、汚れていた。
気づいたのは、感情が爆発した後のこと。
すべてが終わった後で……ヴィンセントに残った唯一の感情は、絶望だけだった。
言い訳をしたいわけではない。
けれど、本当に、こんな酷いことをするつもりはなかった。
はじまりは、ただ彼女を心配しただけだった。
愛していただけだった。
なのに……。
己が所業と向き合う勇気さえない。
彼女の目を見ることさえ出来ない。
死にたい。
今すぐ、誰か俺を殺してくれ。
あの瞬間……頭が真っ白になっていた。
彼女がいなくなると、結婚すると聞いて心が張り裂けた。
それでも必死に、必死に手を伸ばして……拒絶された。
汚い悪徳商人よりも、お前の方が嫌だと言われたように感じて……。
だからだろう。
自分は今、誰よりも彼女に酷いことを――。
そう……自分は今、その悪徳商人と同じことをした――――。
真っ白になった。
何も考えられなかった。
彼女が、ただ欲しかった。
そんなの、何の言い訳にもならない。
「……すまない」
「ふぇ?」
ベッドの上で、ソフィアは静かに顔を上げる。
その顔に、ヴィンセントの涙が落ちた。
「許してなんて言わない。言えない。どうか告発し、俺を処断してくれ……」
「え? え? ……え、いや。な、何の話ですか一体!?」
「本当なんだ。……本当に、君を傷つけたいわけじゃなかったんだ。俺は……俺はただ……」
ぽたり、ぽたりと涙が零れる。
乱れたシーツにはほんの僅かに鮮血が残り、二人の身体は熱を帯び仄か汗が残っていた。
身体だけが、幸福感に包まれている。
それが、何より憎たらしかった。
「えっと……その……お、思ったより、痛くありませんでしたよ?」
首を傾げ、微笑みソフィア。
それを見て、ヴィンセントは余計泣いた。
「すまない。すまない。……俺は、俺は屑だ……」
「い、いいえ! というかちょっと落ち着いて下さい。悪いのは私なのに、どうしてヴィンセント様が落ち込んでいるんですか!? ちょ、ちょっと冷静に話し合いましょう。ね? ねぇ?」
おたおたとするソフィアに絆されながら、ぽつりぽつりと、ヴィンセントは懺悔を始めた。
「君だけだったんだ。俺を……俺の中身を見てくれたのは……」
「いえ、ヴィンセント様は、美しい皆さまに、愛されていませんでしたか?」
「ああ。そうだな。俺の外見と、地位だけな。誰も俺自身を見てない。家族だって、跡取りである俺にしか関心はない。俺の知性を見てくれたのは、君だけだ」
「……はい? ヴィンセント様は誰の目から見ても、頭脳明晰で優秀なお方じゃないですか?」
ソフィアは本気で首を傾げる。
この人が頭良いなんて、それこそ外見と同じくらいわかりやすいことだろう。
だけど、ヴィンセントはそれを褒められたことなど一度もなかった。
「頭じゃなくて、顔ばかりだ。……だから、本当に嬉しかったんだ。君から褒められるのは。君との日々は……」
ヴィンセントは語った。
どれだけあの一年が幸せだったか。
あの一年以外が、どれほど退屈だったか。
自分の元に寄って来る女を毒蛾と呼び、避けて来た。
家族さえ利用する相手でしかなく、最悪の場合家族に吸い殺されると。
味覚を楽しめたのは、あのお茶会だけだった。
自分の自尊心が満ちたのは、君を笑顔に出来た時だけだった。
「だから……だから俺は……本当は君を助けたくて……君と……ただ、一緒に居たくて……」
ぽつりぽつりと、弱気な言葉が流れる。
いつだって自信満々で、堂々としていて、恰好良くて頼もしくて。
それは全部、単なる見栄だった。
ソフィアは今更になって、それに気づいた。
憧れていた人も、ただの人だったと。
そして……自分に自信がなく、自己評価が終わっているソフィアだって、ここまで来れば理解出来る。
いや、そもそも……この身体が覚えている。
本当に憎しみから抱かれたのなら、今頃この身体は、きっとボロボロとなっていた。
けれど残っているのは、求められたことへの強い疲労感と、満ち足りた幸福感だけ。
つまるところ……。
胸が、痛かった。
辛いからじゃない。
嬉しくて、幸せで、きゅーっとなって、胸がときめき過ぎて痛かった。
いや、さっきまでだってそうだ。
大好きな人に求められて、嬉しくならないわけがない。
だから……。
「えっと……その……一つ、聞いてもよろしいでしょうか?」
ソフィアはにやけそうになるのを必死に抑えながら、おずおずと尋ねた。
「……何を話せば良い?」
「えっとですね……男爵領を潰しかけて、あと莫大な学費が必要で、とにかくお金が足りない不良在庫の貧乏神になった私が、もし助けて欲しいと言ったら……その……どう、します?」
「何をしても、助ける。……そう、したかったんだ」
ヴィンセントは断言する。
今の自分は、そのためだけに生きている。
だからこそ、過ちを犯した自分が許せなくなっていた。
「それで、貴方が苦しい思いをしても?」
弟の学費だけでなく、本当の意味でローヴェル家を救う領地再生計画を求めると金額は天文学的な物となる。
正式な伯爵でない彼ならば、文字通りすべてを捧げないといけないだろう。
自分だけでなく、残った余生も。
本当に貧乏神である。
だから、助けてなんてとても言えないと思っていた。
けれど……。
「その程度など、リスクでさえない。いらない物を捨てて貴方を救えるなら、私は……」
また、胸が痛かった。
ソフィアは知らなかった。
大好きな人に愛されることが、これほど幸せなんて、知る訳がなくて……。
だから、この胸から広がり続ける喜びと気恥ずかしさに耐えきなくて……静かに、ベッドに転がった。
「その……本当なら、本気なら……証明、してくれませんか?」
言葉の意味がわからず、ヴィンセントは固まる。
だから、ソフィアは少しだけ、大胆になった。
「今度は、衝動ではなく、貴方に求められたいです……」
驚いた様子を見せた後、ヴィンセントはソフィアの頬にそっと触れる。
「今度は、泣かないでくれるか? あれは心が痛い」
「……うれし泣きでも、駄目ですか?」
答えの代わりに、二人はどこまでも優しく、唇を重ねた――。




