7話 愛憎と執着の果てに
馬車の中、ソフィアは懐かしくも楽しかった日々に思いを馳せていた。
ほんの一年ちょっとの、彼女にとっては刹那であった時間。
それはきっと、以前は良くこの馬車に送迎してもらっていたから。
そのくらい、この馬車はソフィアにとってなじみ深いものだった。
ソフィア家が持つ馬車と違い、大きく、早く、そして快適。
二馬に引かれる車体は滑らかな挙動で、心地よさの中、風景を高速で早回しにする。
そうしてあの人の笑みを思い浮かべて……気づけば、目的の場所に到着していた。
何か、言い訳でも考えなければいけなかったのに。
確かに、ここに来たいとは思っていた。
何度か誘われて、結局その機会がなくて。
だけど……今だけは、いや、こんな状況でだけは、彼の屋敷に呼ばれたくなかった。
老執事に屋敷の中に案内されるがままとなり、個室に入って……ソフィアはとうとう、今一番会いたくない人と巡り合った。
彼の美しい顔は、いつもと異なる形相を示している。
今にも人を射殺さんとする銀の形相と、冷たく歪む美貌。
彼は、明確に怒っていた。
普段ならば、聡明な彼の考えなど想像も出来ない。
貴族たる者顔色を悟らせず、というのは全くもって彼を見ていると正しいと思う。
なのに……。
ぱたんと扉が閉じられ、二人だけとなる。
直後、彼は口を開いた。
「どういうつもりだ?」
「え、えと。何のことで……」
「とぼけるな!」
彼の声量にソフィアの身体はびくんと震え、縮こまる。
それでも……彼の怒りは収まる様子はなく、ゆっくりと近づいてくる。
怯え、後退するもすぐ壁に。
そうしてとうとう壁に背が付き、彼に挟まれる。
怯えた様子で、ソフィアは彼を見上げた。
吸い込まれそうな美しき銀の相貌。
その相貌が、怒りに燃えている。
「なんだよ。結婚って……いったい……」
反射的に、ソフィアは顔を反らし俯く。
だから、気づいた。
彼の手は、静かに震えていた。
ソフィアの中に驚きがあった。
どうして知ったのだろうと。
けれど、同時に納得もあった。
彼ならば、そのくらい知らないはずもない。
だから……必死に、頑張って引き延ばしてきたけれど……ここが限界だったのだ。
いつか終わる夢が、弾けた。
それだけのことだった。
それに、彼の怒りもまったくもって正しい。
部下が何の連絡もなく、勝手に辞めようとしていたのだから。
辞めるのだから、結婚が決まった段階で、すぐに言わなければならなかった。
そんなの社会人として当然である。
なのに、言いたくなくて、知られたくなくて、こうしてギリギリに。
そう……怒るのは当然だ。
引継ぎも何も出来ないくらいギリギリなのだから。
「……連絡が遅れ、申し訳ありません。一応、引継ぎ用のマニュアルは残してあります。残った一月ほども、そのために……」
彼の形相が、更に怒りに染まった。
「そういうことじゃない!」
激昂し、ドン! と、強く壁を殴りつける。
ぎゅっと、拳が固く握られる音が耳元で聞こえた。
「そういうことなんかじゃ……ない。君が望んだ結婚なら、俺は納得してみせる。君の幸せを心から祝う努力をする。なのに……なんで……」
その言い草から、相手のことも知っているとソフィアは気づいた。
まあ、知っていて当然かもしれない。
ソフィアさえ悪い評判を耳にする程の商人なのだから、彼が知らないはずがなかった。
「君は知っているのか!? あいつがどれだけあくどいことをして、どれだけ人を苦しめ……そして、どれだけの女性を壊したかを……」
ソフィアは小さく頷く。
成り上がりの大豪商で、妻の数は毎年増減する。
増えるのではなく、増減というのが彼の酷さを示している。
当然そんな相手だから国からマークされており、それでも捕まってないのだから、彼が相当強かさであることも理解出来るだろう。
「それでも……彼が一番、条件が良い相手だったんです」
「どうして……なんで、そんなことに……」
「誰かが悪いというわけじゃないんです。ただ……我が家は、あまり為政者として優れているわけではなかったみたいです」
そう言って、ソフィアは力なく笑った。
そう……誰が悪いわけじゃない。
ただ、父も母も一代目男爵を維持する能力がなく、頑張ったけど空回りして、借金が膨れ上がった。
良くあることだろう。
そして、それだけならばまだ問題はなかった。
末端部署とはいえ王宮で仕事を受けていたソフィアの賃金は非常に良い。
それこそ、男爵の名を維持する程度は彼女だけでも可能だった。
それに両親は貴族として無能であっても、人としても非常に優れている。
両親も朝から晩まで働きに出ており、現状打破も時間の問題だろう。
問題となるのは……。
「気づいた時は、手遅れ……いえ、ギリギリ間に合ったんです。弟の手に、退学届けがあることに気づいて――」
そう、弟。
大好きな弟。
頑張り屋で、一生懸命で、才能ある弟。
良くも悪くも平凡である我が家族から生まれた、希望の星。
その彼のための学費は、一代目男爵家には、あまりにも重たかった。
「弟が、自分の夢を捨てる覚悟を持ったんですよ? まだ十二歳なのに。そんなの……駄目じゃないですか。だって私、お姉ちゃんなんだから」
「だ、だったら……だったら何故、俺に相談してくれなかったんだ!? 俺は……君が苦労したなら……」
「……はい。ヴィンセント様は優しい方です。きっとそう言ってくれると思ってました」
「じゃ、じゃあ。どうして――」
「だからですよ」
「え?」
「私が、足りなかったとは思いますが貴方の部下として頑張ってきました。貴方を目標として目指してきました。それなのに、我儘で迷惑をかける? そんなこと、出来るわけないじゃないですか!」
声が、震えた。
彼の前でこんな大きな声が出るのかと、自分でもびっくりした。
彼も驚いたようで、目を見開き、こちらを見ていた。
「対等になりたかった。せめて実力だけでも追いつきたかった。でも……無理でした。私はどこまでも平凡で、見苦しい容姿で、何もなくて……」
「そ、そんなことはない。君は誰よりも聡明で、う、美しくて……」
「貴方が言うと、嫌味にしかなりませんよ」
ヴィンセントは口を詰まらせる。
その自覚はあるのだろう。
自分が、女性より美しい自覚が。
例えそれが……嫌悪だとしても。
「もう……さい」
小さな声で、ソフィアが呟くも聞き取れなかった。
聞き直そうと顔を近づけた瞬間――。
「もう、私に関わらないで下さい!」
そう叫び、ソフィアはヴィンセントの身体を両手で押しのけた。
「貴方に……貴方にだけは知られたくなかった。でも、もう知ってしまった。だから……もう関わらないで! これから汚れる私を見て欲しくないんです。これ以上……私を、惨めにしないで……」
我慢しようと思った。
けれど、こらえきれず、瞳から涙が零れる。
そっと涙を拭い、彼を見て――ソフィアは、息を詰まらせた。
それは彼女が生きて来た人生において、おおよそ初めて向けられた感情だった。
妬みや怒りをぶつけられたことはあった。
嫉妬や嘲笑、侮蔑、差別。
そういうものは彼女の近くにあった。
けれど……これは知らない。
怒りを超えたその先。
能面のような、冷たい表情を彼は向けている。
そんな、心の底からの本気の感情、彼女はこれまでぶつけられたことはなかった。
目の前の男が宿した感情の底深さを、ようやくソフィアは理解出来た。
血走った瞳と震える身体。
全身から怒りが零れ、憎しみが溢れ、嘆きが広がる。
なのに、顔はどこまで冷たいままで。
胸が、痛くなった。
こんなに悲しませたんだという事実に、ソフィアは今更気づいて……心が挫けそうになった。
「お前にとって……俺とは、その程度の存在だったのか……。だったら……もう……」
彼の手が伸び、ソフィアの腕が捕まれる。
柔らかく、優しく。
けれど、どれだけ振りほどこうとしても、その手は決して離れない。
そうして部屋の隅に引っ張られた後、ベッドに投げられた。
馬乗りとなり、ヴィンセントの顔が近づいてくる。
何をされるかわからないほど純粋ではない。
拒絶しないといけない。
これから嫁ぐ人間が、していいことではない。
それに、未来ある彼に自分など――。
それはわかっているのに、抵抗なんて、出来るわけがなかった。
例えそれが、彼の怒りによる報復行為だとしても――。
「……良いですよ。それで、少しでも貴方の苦しみが安らぐなら」
そう言って、静かに彼を抱きしめ、抱える。
強引に、奪うように、唇を塞がれる。
涙が、零れた。
幸せ過ぎて、悲し過ぎて。
そっと、彼の手がソフィアの眼鏡に触れ、はずされる。
世界が輪郭だけになる中、傍にある彼の顔だけがはっきりと見えた。
不思議と、冷たいはずの目に優しが見えたような気がした。
愛おしいと、願うように。
手が伸びて、シニヨンが解かれ髪がベッドにはらりと散る。
そのまま撫でられながら、再びベッドに倒されて――。
優しく、けれどまるで刻むように……。
彼に愛されながら、ソフィアは涙を零し続けた。
――酷い人。これから汚れる私に、こんな幸せな夢を見させて……。
この所為で、自分はきっと一生苦しむ。
汚れ、苦しむ中、何度もこの忘れられない美しい記憶を、思い出し続けることとなるだろう。
この記憶に縛られ、幸福の過去を振り返り続け。
そしていざ死にたくなっても、自死さえ選べない。
それほどまでに、この瞬間は甘美過ぎる。
二度と戻ってこない美しい過去を夢見て、醜い現実で汚れ続けることしかもう許されなくて……。
それはなんて絶望なことだろうか。
考えるだけでも、震えて来る。
それでも……あんな顔をされたら、抵抗なんて出来るわけがなかった。
ただでさえ、それは彼女にとっても、焦がれ続けたものだったのだから……。




