第6話「香草袋の香り」
第6話「香草袋の香り」
石門を潜り、聖泉領の巡礼村へと足を踏み入れた瞬間、時間は緩やかに、けれど確実にその質を変えた。
村の広場には、柔らかい春の陽だまりが落ちている。その中心に、子どもたちに囲まれて座る一人の少女の後ろ姿があった。
「……金髪だ」
セラよりもわずかに色が淡い、光の加減で銀色にも見える金髪。
纏っているのは、巫女見習いを示す清潔な白と水色の巡礼衣。
そして、その腰元には――。
「……香草袋か」
俺の足は、そこで完全に釘付けになった。
かつて俺の中にいたセラは、金髪ではなかった。白装束も着ていなかった。転生すれば、姿形が変わるのは道理だ。目の前にいるのは、俺の知る「セラ」ではない別の人間。それは頭では理解している。
しかし、彼女が子どもたちの頭を撫でる指先の動き、その背中から立ち上る穏やかな空気感が、俺の記憶にある欠落したピースに、残酷なほど正確に合致していく。
「違う。別の人間だ。……しかし……」
鼓動がうるさい。二百五十年生きてきた心臓が、まるで生まれたばかりの赤子のように頼りなく脈打っている。
「……いい? 祈りは、言葉じゃないの。心の中に、温かい光を灯すような気持ちで――」
子どもたちにそう教えていた時だった。
背中の奥、魂の最も深い場所が、びりびりと震え始めた。
心臓を冷たい指で直接触れられたような、けれど同時に、焚火に翳した時のように熱い感覚。
(……誰かが、来た)
村を訪れる巡礼者は珍しくない。けれど、この感覚は異常だ。
数日間、私をずっとエルディナの方向へと引きずり続けていた、あの「見えない糸」が、今、ピンと張り詰めた。
私はゆっくりと振り返った。
村の入り口、石畳の端に、一人の少年が立っていた。
銀色の髪に、意志の強そうな瞳。私と同じか、少し幼いくらいの外見。
けれど、彼が纏う空気はあまりにも重く、あまりにも古い。
(……この感じ。夢の中で、ずっと探していた……)
気づけば、私は立ち上がっていた。
子どもたちが不思議そうに私を見上げているけれど、構っていられない。
吸い寄せられるように、私は彼の方へと歩き出した。
一歩、近づくたびに、頭の中に「雷の光」と「雨の音」が激しく鳴り響く。
彼の目の前で立ち止まる。
間近で見るその瞳は、言葉にできないほどの悲しみと、永い孤独を湛えていた。
少女が近づいてくる。
その瞳に宿る蒼と翠の光が、まっすぐに俺を射抜いた。
言葉を失い、ただの少年のように立ち尽くす俺を見て、彼女は不思議そうに小首を傾げた。そして、唇を動かした。
「――あなたも、傷ついているの?」
雷に打たれたような衝撃が、俺を貫いた。
「……なぜ」
喉が引き攣れ、声が掠れる。
なぜ、その言葉を。
KR64年。戦場で泥を啜り、人からも魔族からも拒絶され、血に汚れていた俺に、セラが最初にかけた言葉。二百年近く、俺を呪い、そして救い続けてきた言葉。
「……なぜ、その言葉を口にする」
俺の問いに、少女――セリスは、自分でも驚いたように目を丸くし、慌てて口元を押さえた。
「ご、ごめんなさい……。自分でも、よく分からなくて。ただ、あなたの顔を見たら、どうしてもそう言わなきゃいけない気がして……。変ですよね、初めて会うのに」
彼女は困ったように笑い、胸元の香草袋に無意識に手を触れた。
その瞬間、春の風が彼女の傍らを吹き抜け、俺の鼻腔をくすぐった。
「…………ッ」
香ったのは、清涼感の中に微かな甘みを帯びた、あの独特の芳香。
俺が二百五十年間、片時も手放さず、今も懐に入れている「セラの形見」と、一分の狂いもない、同じ配合の香り。
絶句した。
偶然だと言い切るには、世界はあまりにできすぎている。
神の悪戯か、あるいは彼女の執念か。
目の前の彼が、幽霊でも見たかのように青ざめ、沈黙した。
彼が何も言わなくなったことで、逆に、彼の存在感がこの場の空気を圧倒し始める。
冷たいのに、温かい。
激しいのに、穏やか。
私の胸の中で、香草の香りが強く弾けた。
その瞬間、夢の断片が鮮やかな色彩を持って脳裏を駆け抜ける。
焚火の向こう側。影を背負って座る、今よりもずっと険しい表情をした彼。
『……守れたことは、ない』
夢で聞いたあの低い声が、今、目の前の彼の存在と重なった。
(ああ……そうか。そうなんだ)
説明なんてつかない。私はセリス=アルフェリアであって、夢の中の彼女ではない。
けれど、私の魂は、最初からこの答えを知っていたんだ。
「……この声」
私は、震える唇を無理やり動かし、言葉を紡いだ。
ずっと、ずっと、言わなければならないと思っていた言葉。
「……夢で……ずっと、探していました……」
私は彼を見つめ、確信を持って問いかけた。
「……あなたが、その人ですか?」
レイクスの瞳が、大きく揺れた。




