第19話「静寂」
第19話「静寂」
KR235年、晩秋。
地平線から這い上がった朝陽が、フォルネリアの冷え切った空気を黄金色に焼き払っていく。
レイクスは、小屋の前に立ち尽くしていた。
視線の先にある森の木々は、朝露を纏って宝石のように輝いている。世界は昨日までと何も変わらず、ただ新しい一日を始めただけのように見える。
だが、レイクスの内側は、かつてないほどの質量を持った「沈黙」に支配されていた。
「……セラ」
無意識に、喉の奥から声が漏れた。
いつもなら、間髪入れずに皮肉や笑い声、あるいは慈愛に満ちた小言が返ってくるはずの場所。
(…………)
何も、聞こえない。
レイクスは、自らの魂の深淵へ向けて、もう一度だけ意識を投げ入れた。
「……セラ」
(…………)
静かだった。
ただ、自分の心臓が刻む規則正しい鼓動と、肺が空気を出し入れする音だけが、不自然なほど大きく響いている。
「……そうか」
レイクスは、短くそれだけを口にした。
百七十年間。
KR65年に彼女が実体を失い、その魂の欠片が彼の中に宿って以来、彼の思考には常に「他者」の響きがあった。それは時に煩わしく、時に救いであり、そしていつしか、彼という存在を形作る不可欠な一部となっていた。
これほどまでに静かな頭の中を味わうのは、いつ以来のことだろうか。
(……KR65年。彼女と出会う前は、もっと静かだったはずだ)
思い出そうとするが、その「静寂」の感触は、今抱えているものとは決定的に異なっていた。
かつての静寂は、何もない「虚無」だった。復讐の炎だけが燃える、空っぽの荒野のような静けさだ。
だが、今は違う。
かつてそこにあった温もりが、確かな色彩が、一つの命としての輝きが、完成して旅立っていったあとの、澄み渡るような凪。
(満ちていたものが、解き放たれたのだ……)
レイクスは、懐の香草袋を握りしめた。
布越しに伝わる微かな香りは、今もそこに彼女がいた証として、彼の手の中に残っている。
「……ふぁ……。おとうさん、どこー?」
背後で、小屋の扉が細く開く音がした。
寝ぼけ眼をこすりながら、ヴィーナが外へ這い出してくる。朝陽の眩しさに目を細めながら、彼女は俺の背中を見つけて、ぱっと顔を輝かせた。
「おとうさん! おはよう!」
レイクスは、ゆっくりと振り返った。
朝の光を背に受けて立つ彼の姿に、ヴィーナは駆け寄ろうとして――不意に、その小さな足を止めた。
彼女は、少しだけ首を傾げる。
子供特有の鋭敏な感性で、彼女は「昨日までのお父さん」とは何かが違うことを、瞬時に察知していた。
「……おとうさん。なんか、かなしい……?」
レイクスは、答えに窮した。
悲しいのか。それとも、安堵しているのか。あるいは、誇らしいのか。
複雑に絡み合った感情の糸を解きほぐす術を、彼は持っていない。
「……少しだけだ。少しだけ、大切な友人が旅に出た」
「……ともだち?」
ヴィーナはしばらくの間、じっとレイクスの顔を見つめていた。その瞳には、五歳の少女とは思えないほどの深さと、揺るぎない愛情が宿っていた。
やがて、彼女は意を決したように走り出し、レイクスの腰のあたりに力一杯抱きついた。
「ヴィーナがいるよ!」
その言葉は、どんな高位の魔法よりも力強く、レイクスの凍てついた心を貫いた。
「おとうさん、ひとりじゃないよ! ヴィーナがいるよ! ずっと、ずっといっしょだよ!」
レイクスは、何も言えなかった。
ただ、ヴィーナの小さな温もりが、自らの肉体を通して魂の空白を埋めていくのを感じていた。
セラが最期に遺していったもの。彼女が「もう一人にならないように」と託した、この小さな命。
レイクスは不器用に、けれどこの上なく優しく、ヴィーナの頭に大きな掌を置いた。
「……そうか。……そうだな。お前がいる」
レイクスは、ヴィーナを抱きとめたまま、もう一度だけ空を見上げた。
蒼穹の彼方へと消えていった、あの声。
「……『いってきます』、か」
彼女は、別れとは言わなかった。また会えることを確信して、そう告げたのだ。
ならば、自分にできることは一つしかない。
「……ならば待つ。どこかで生まれ直したお前が……いつかまた、俺に出会うまで」
たとえお前が俺を忘れていても、俺がお前を見つけ出す。
声で、香りで、魂の輝きで。
二百三十五年を生きた半魔族の男は、新しく訪れた「静寂」を、もはや孤独とは呼ばなかった。
「おとうさん、おなかへった! ごはん!」
ヴィーナが俺の裾をぐいぐいと引っ張る。その元気な声が、朝の空気を震わせた。
「……ああ。今、作ってやる」
レイクスは立ち上がり、ヴィーナと共に小屋へと歩き出した。
セラの声はもう聞こえない。
けれど、彼が歩く一歩一歩には、かつて二人で刻んできた百七十年の重みが、確かに宿っていた。
セラのいない世界で。
けれど、セラの愛が満ちた世界で。
レイクスとヴィーナの、二人きりの朝が始まる。




