第18話「夜明け前」
第18話「夜明け前」
KR235年、晩秋。
夜の帳が最も深く、そして最も冷たく降りる時刻。フォルネリアの小屋を囲む木々は、重い沈黙の中で凍りついたように動かない。
レイクスは、小屋の前の広場に独り立っていた。
吐き出す息は白く、瞬きをする間に消えていく。その視線の先にある東の地平線は、未だ漆黒の闇に塗り潰されたままだ。
胸の奥にある「光」は、いまや風前の灯火だった。
百七十年間、彼の絶望を繋ぎ止め、荒れ果てた心に唯一の色彩を与え続けてきたその拍動が、一秒ごとに、残酷なまでに遠ざかっていく。
「……セラ」
掠れた声で呼ぶ。返ってくるはずの言葉は、すぐには届かない。
魂の結合部が、音もなく剥がれ落ちていく感覚。
(……)
数拍ののち、耳鳴りよりもかすかな、しかし清澄な響きが、意識の底を撫でた。
「……まだ、いるか」
(……いるよ)
それは、今にも霧散してしまいそうなほど薄く、けれど確かにそこにあった。
レイクスは空を見上げた。星々は先ほどよりも光を失い、世界の輪郭が、灰色の静寂に包まれ始めている。
「……セラ」
(……なに?)
「……生まれ変わっても、祈ることを忘れるな。お前の祈りが、どれほど多くの者を救ったか……俺が一番知っている」
(……うん)
「……人の苦しみに寄り添うことを忘れるな。それが、お前の強さだった。お前がそのままでいれば、世界はきっと、お前を拒まない」
(……うん)
レイクスは、自らの内に語りかける言葉の一つひとつに、呪いにも似た強い願いを込めた。それが、彼が彼女に遺せる唯一の資糧であるかのように。
「……幸せになれ」
その言葉を口にした瞬間、レイクスの喉の奥が、焼けた鉄を飲み込んだように熱くなった。
(……)
返事がない。
一秒が、永遠のように長く感じられた。
(……あなたも)
消え入りそうな、けれど確かな意志を持った答えだった。
レイクスは、腰のポーチから古びた、けれど大切に手入れされた香草袋を取り出した。百七十年前、セラが彼に贈ったものだ。
「……ずっと、持っていた」
指先で、擦り切れた布の感触を確かめる。微かに残る、あの清涼な香草の香りが、記憶の奥底にある陽だまりのような日々を呼び起こす。
(……知ってる。ずっと、見てたから)
セラの声は、もはや言葉というよりも、温かな吐息のような気配となっていた。
(……ありがとう、レイクス)
東の空が、わずかに白み始めた。
群青色の空が薄墨色へと変わり、大地の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
光の訪れは、即ち、別れの成就であった。
「……セラ」
(…………)
沈黙。
「……セラ」
返事はない。
レイクスの内で、百七十年間共にあった「重み」が、ふわりと消え去る。
魂の一部が千切れるような激痛ではなく、ただ、世界から音が、色彩が、熱が奪われていくような、空虚な喪失感。
レイクスは動かない。
泣くことも、叫ぶこともない。
ただ、香草袋を握り締める指に、白くなるほどの力が込められていた。その不自然な静止の中にこそ、彼の内側で吹き荒れる狂おしいほどの嵐が凝縮されていた。
地平線の一点が、黄金色の筋を引いた。
朝陽の矢が、凍てついたフォルネリアの森を貫く。
(……)
ふいに、意識の最果てから、これまでで最も優しく、そして晴れやかな声が届いた。
(……いってきます)
それは、別れの嘆きではなく、新しい旅路を歩む者の、輝かしい宣誓であった。
レイクスは、ゆっくりと目を見開いた。
眩いばかりの光が、彼の銀髪を、そして頬を伝う一筋の冷たい跡を照らし出す。
「…………いってらっしゃい」
震える声を、朝の風が攫っていく。
「セラ……」
彼女はもう、いない。
レイクスの胸の中にあるのは、かつてないほどの静寂。
けれど、握り締めた香草の香りは、朝陽の中に力強く立ち上っていた。
KR235年、晩秋の朝。
百七十年にわたる共生の旅は終わりを告げ、レイクスは、彼女が繋いでくれた「生」を抱えて、独り、夜明けの地平を見つめ続けた。




