第17話「最後の夜
第17話「最後の夜
KR235年、晩秋。
フォルネリアの夜は、すべてを凍てつかせるような静寂に包まれていた。雲一つない夜空には、零れ落ちそうなほどの星々が瞬き、冷え切った大気を白く照らしている。
小屋の中では、ヴィーナが穏やかな寝息を立てていた。俺はその傍らに座り、彼女の小さな胸の上下をしばらく見つめた後、音を立てずに立ち上がった。上着を羽織り、木製の扉をそっと開けて外へ出る。
(ねえ……レイクス。今夜……今夜かもしれないわ)
不意に、胸の奥で光が微かに、しかしこれまでになく熱く拍動した。セラの声は、透き通るような明瞭さを取り戻していた。それが「最後の一滴」が放つ、もっとも純度の高い輝きであることを、俺は直感的に理解した。
「……今夜か」
(うん。そんな気がするの。……女神様が、すぐそばまで迎えに来ているような……そんな、温かくて懐かしい気配がするわ)
俺は何も言わず、膝の上に置いた拳を強く握りしめた。
(ねえ……KR64年の、あの拠点の外縁でのこと、覚えてる?)
「……覚えている。お前が、勝手に俺の隣に立っていた時のことだ」
俺は目を閉じた。まぶたの裏に、喧騒を避けて座り込んでいた、かつての自分の姿が浮かぶ。
懐の「雷光の指輪」が微かに震えていたあの日。場違いなほどに清浄な輝きを放つ、純白の法衣を纏った少女が現れた。
(ふふ。あの時のあなた、本当に怖かったのよ? 周りのみんなは『銀髪の天才少年』なんて噂してたけど、私には、近寄るものすべてを拒絶するような鋭い刃に見えたわ。……でもね、不思議と放っておけなかったの)
「……『どこか傷ついていませんか』などと、お前は初対面で抜かしたな。……俺がゴミを被ることはあっても、傷など負わないと言い返したことも」
(そう言ったわね。でも、私が聞きたかったのは体の傷のことじゃなかった。……『心の話よ』って、私があなたの魂を覗き込むように言った時、あなた、初めて言葉に詰まって……黙り込んじゃった。……あの時の驚いたような、戸惑ったような顔。私、あれがずっと好きだったのよ)
「……あれで俺は……生まれて初めて、他人に自分の内側に土足で踏み込まれたのだと思い知らされた。……否定することも、斬り捨てることもできない言葉があるのだと、お前に教えられた」
セラの笑い声が、懐かしい鈴の音のように響く。
(それから一年、一緒に旅をして……四季を一緒に過ごして。……あの冬の小屋が、私、すごく幸せだった)
「……俺もだ。お前が俺の隣にいることが、当たり前だと思い始めていた」
(……ありがとう、レイクス。……170年間、ずっとそばにいてくれて、本当にありがとう。独りじゃなかったわ)
セラの声が、微かに震える。
「……俺こそ。お前がいなければ、俺はとっくに自分を失っていた。どこへ向かえばいいのかわからず、復讐の果てに消えていただろう。……お前が、俺の唯一の『道標』だったんだ」
(……そんなこと言ったら……行けなくなる。……ねえ、レイクス。行かないでって、言ってくれる?)
セラの光が、激しく揺らめいた。
俺は拳を強く握り、押し殺した声で答えた。
「……行くな。……お前のいない世界など、想像もつかない」
(……レイクス……)
「……だが……。……わかっている。……行って来い、セラ。お前は、新しい命として、光の中で呼吸をする一人の人間として、もう一度この世界を歩くべきだ」
沈黙が流れる。
(……レイクス。ヴィーナを、よろしくね。あの子の『お父さん』は、あなただけなんだから)
「……ああ。約束する」
(セバスとゼフィールとアルトミュラーにも、よろしくね。……それと、次に私に会った時、私が全部忘れていても……声で気づいて。……香草の香りで気づいて)
「……忘れない。どんな姿になろうと、俺がお前を見つけ出す」
セラの気配が、急激に遠ざかり始めた。
(ねえ……レイクス……)
「……聞こえている」
(好きよ)
俺は、震える唇を開いた。
「……俺もだ。愛している、セラ」
(ふふ……やっと言えた……)
それが、最後の言葉だった。
胸の奥に灯っていた温かな光が、すうっと霧散していく。
百七十年間、俺の耳元で囁き続け、俺の心を支え続けてきた声が、今、完全に沈黙した。
俺は、ただ独り、凍てつく夜の静寂に取り残された。
「…………ああ。……行って来い」
俺は、二度と戻らない声に向けて、もう一度だけ呟いた。




