第15話「最後の食卓」
第15話「最後の食卓」
KR235年、秋。
フォルネリアの夕暮れは、空を燃えるような琥珀色に染め上げていた。秋風が木の葉を舞い上げ、小屋の窓を微かに叩く。その冷涼な空気とは対照的に、室内はこれまでにない温かな熱気と香りに満ちていた。
俺は台所に立ち、使い慣れた剣を振るう時よりも遥かに神経を研ぎ澄ませていた。
「おとうさん、なんかいつもとちがう! おなべ、三つもつかってる!」
ヴィーナが俺の足元をうろうろしながら、背伸びをして調理台を覗き込もうとする。
「……危ない。あっちで待っていろ」
「だって、すごいにおい! おいしそうなんだもん!」
いつもなら保存のきく干し肉と野菜の煮込みで済ませるところだが、今夜は違う。村の市場で仕入れた新鮮な白身魚、熟した果実、そしてセバスがかつて隠し味に使っていたという、異国の香辛料を僅かに加えた。
魚を丁寧に焼き上げ、秋の味覚を煮込み、焼き立てのパンを並べる。盛り付けの一つひとつに、俺は言葉にできない祈りを込めていた。二百年以上の生涯で、これほどまでに一食の重みを感じたことはない。
「わあ……! おとうさん、これ、ぜんぶたべていいの!?」
テーブルに並んだ料理を見て、ヴィーナの瞳が満月のように見開かれる。
「ああ。好きなだけ食え」
俺はヴィーナの隣に座り、そして、向かい側の「空席」に視線を向けた。
そこには誰もいない。傍から見れば、二人きりの質素な夕食だろう。だが、俺の魂の深淵では、かつてないほど鮮明に彼女の気配が揺れていた。
(……きれい。レイクス、本当にあなたが作ったの?)
セラの声が響く。先日の遠さが嘘のように、今夜はすぐ隣で囁いているように聞こえた。
「……座れ。冷める」
(ふふ、そうね。……いただきます、レイクス)
三人での食事が始まった。
ヴィーナは「おいしい! おいしい!」とはしゃぎながら、頬をリスのように膨らませて料理を口に運んでいる。俺は不器用な手つきで彼女の取り皿に魚を分け与え、自分もまた、静かにスープを口にした。
(……おいしい。温かいわ、レイクス)
「……そうか」
(上手になったわね。……フォルネリアに来たばかりの頃、激辛スープを作ってた人とは思えないわ)
「……努力した。あいつが文句を言わないように、そして……お前が満足するように」
(ふふ。ありがとう。最高のご馳走よ)
ヴィーナが突然椅子から飛び降り、俺の腕に抱きついてきた。口の周りにソースをいっぱいつけたまま、彼女は満面の笑みを浮かべる。
「おとうさん! おいしい! ヴィーナ、おとうさんのごはん、せかいでいちばんすき!」
その真っ直ぐな称賛に、俺は胸の奥が震えるのを感じた。
(ね。よかったわね、レイクス)
「……ああ。……そうだな」
俺はヴィーナの背中に手を添え、静かに頷いた。
かつて、エルディナの草原で、あるいは戦火の合間で、俺たちが夢見ていた「いつか」が、今、この狭い小屋の中で結実していた。百七十年の時を超えて届いた、ささやかで、しかし何物にも代えがたい「家族」の風景。
食後、興奮し疲れたヴィーナは、俺の膝の上で早々に眠りに落ちた。
彼女を寝床へ運び、毛布を掛け直すと、俺は再びテーブルに戻った。消えかけた灯火を整え、窓を開けて夜気を招き入れる。
そこには、二人だけの時間が流れていた。
(ねえ……レイクス。今日は本当に、ありがとう)
「……礼はいらないと言ったはずだ。俺がしたくてしたことだ」
(ううん、言いたかったの。……この百七十年間、ずっと一緒にいてくれて、本当にありがとう)
セラの声が、静かな夜の闇に溶け込むように響く。
(あなたが私を離さなかったから。あなたが私の欠片を守ろうとしてくれたから……私は、ただの記憶の残滓にならずに、光のままでいられた。あなたの強さが、私を生かしてくれたの)
俺は長い沈黙を置いた。
視界の端で、ストームリングの銀色が月光を反射して冷たく光っている。
「……違う。お前が……光だったから、俺は歩けた。お前の声が、俺が化け物にならないための、唯一の鎖だった」
彼女がいなければ、俺はとっくに復讐の炎に焼き尽くされ、感情を持たないただの殺戮兵器となっていただろう。俺を生かし、俺に「人間」としての苦悩と喜びを教え続けたのは、他でもない彼女だ。
「……俺の方こそ、礼を言うべきなのだろうな。……ありがとう、セラ」
(……ありがとう。……嬉しいわ、レイクス)
空気そのものが優しく震えた。姿は見えずとも、彼女が微笑んでいるのがわかった。
それは、永きにわたる旅路の果てに辿り着いた、魂の和解だった。
俺は椅子を縁側へと運び、窓の外に広がる秋の月を眺めた。
月は白く、冷たく、それでいてどこか慈悲深く、フォルネリアの地を照らしていた。
「……いつ頃だ。その時は」
(そう遠くない。……でも、今夜ではないわ)
セラの声は、凪いだ海のように穏やかだった。
「……そうか」
(今夜は……まだここにいる。もう少しだけ、この月を一緒に見ていたいから)
「……ああ。……好きなだけ、ここにいろ」
俺は目を閉じ、隣にあるはずの気配を強く感じ取ろうとした。
別れは、必然だ。
だが、今夜この食卓で分かち合った温もりがある限り、俺たちは二度と、真の意味で孤独になることはない。
KR235年、秋。
月明かりの下で、半魔族の男と、姿なき聖女は、最後から二番目の夜を静かに刻んでいた。




