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レイクス戦記  作者: ゆう
第4章「忘却の聖女」

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第13話「そろそろ、ね」

第13話「そろそろ、ね」


 KR235年、夏。フォルネリアの夜は、生命の謳歌を象徴するような虫たちの合奏が響き渡っている。

 小屋の窓から差し込む月光は、青白く鋭い刃のように床を切り裂いていた。俺は寝床で穏やかな呼吸を繰り返すヴィーナの側に腰を下ろし、ただ静かに、闇を見つめていた。

 二百三十五年という歳月は、俺から多くのものを奪い、同時に多くのものを摩耗させてきた。だが、今、この胸の内にある静かな波立ちは、これまでのどの戦い、どの別れとも違う異質な予感を孕んでいる。

(ねえ……レイクス。少し、話があるの)

 不意に、胸の奥で光が微かに瞬いた。

 セラの声は、羽毛が水面に落ちたような、優しく、しかし確固たる重みを持って響いた。

「……聞いている」

 俺は声に出さず、意識の底で応じた。

(そろそろ……行く時が来たみたい)

 覚悟はしていた。春先から彼女の気配が透き通っていくのを感じていた。だが、実際にその言葉を突きつけられると、肺の奥から空気が根こそぎ奪われたような錯覚に陥る。

「……そうか」

 長い沈黙の後、俺が絞り出せたのはその一言だけだった。

(うん)

 セラの返答は、どこか吹っ切れたような明るさを帯びていた。それがかえって、俺の心の輪郭を鋭く抉る。

「……なぜわかる。何が、お前を連れ去ろうとしている」

(女神の声……みたいなものが、聞こえるの)

「女神……ヴィーナバニースか」

(そう。ずっと、優しく響いているわ。『行きなさい』って。……もう、ひとつの場所あなたに留まる時ではない。新しい命として、この世界に生まれ直す時が来たんだって)

 俺は拳を握りしめ、ストームリングの冷たい銀の感触を指に食い込ませた。

「……女神が、そう言うのか。俺の中から、お前を奪うと」

(ううん、レイクス。奪うんじゃないわ。これは、怖いことじゃないの。嫌なことでもない。ただ……)

「ただ、何だ」

(あなたと、こうしてお話しできなくなるのが……離れるのが、少しだけ……)

 彼女の言葉が、途切れた。姿は見えずとも、彼女が今、どのような表情で、どのような想いで俺を見つめているのかが、痛いほどに伝わってくる。二百年近く、俺たちは一つの心の中で命を共有してきたのだ。

「……いつだ」

 感情を押し殺し、俺は短く問うた。

(正確にはわからない。でも……確信があるの。きっと、今年中には)

「今年中……。あと数ヶ月か」

(うん。でもね、レイクス。私は消えて無くなるわけじゃないの。新しい命として、この大陸のどこかで生まれる。ちゃんと呼吸をして、ちゃんとこの世界を生きていく。だから……)

「……前にお前は言っていたな。次に会う時は、お前は俺を覚えていないだろうと」

(……言ったわね。魂が新しくなれば、今の記憶は形を失ってしまうかもしれない)

 セラの声は、夜風に混じって消えてしまいそうなほど儚かった。

(でもね、魂は同じなの。器が変わっても、繋がっているものは変わらない。いつか絶対に、ちゃんと出会える。その時は、あなたが私を見つけて。……約束よ?)

「……勝手なことを言うな」

 俺は顔を伏せた。視界が滲んでいるのは、月光の悪戯だろうか。

 二百年近く、彼女を守るために生きてきた。彼女の声が聞こえるからこそ、俺は「レイクス」という自分を保っていられたのだ。

(レイクス……。泣かないでね)

「……泣かない。俺がいつ、そんな真似をした」

(知ってるわ。あなたは世界で一番の強がりだもの。……でもね、少しくらい泣いてもいいのよ。今の私は、あなたの涙を拭ってあげられないけれど)

「……黙っていろ」

 長い沈黙。

 俺とセラは、ただ互いの存在を、かつてないほど濃密に感じ合っていた。

(ふふ。やっぱり、あなたは私の大好きなレイクスのままね)

 セラの笑い声が、懐かしい鈴の音のように響く。

「……う、んん……。おとうさん……」

 不意に、傍らで眠っていたヴィーナが、小さく寝言を漏らした。

 俺とセラは、同時にその声を聞いた。

 

 闇の中で、彼女の寝顔を見つめる。

 この子がいたから、俺はセラの「去り際」を、ただの絶望としてではなく、一つの希望として受け入れようとしているのかもしれない。

「……残す」

(うん。この子を残す。それが……私からあなたへの、最後の贈り物。あなたが一人にならないように。あなたが、この世界を愛し続けられるように)

 セラの光が、ヴィーナの寝顔を撫でるように優しく揺れた。

 別れは「そろそろ」訪れる。

 だが、それは決して空虚な消失ではない。

 俺は、彼女を宿す胸の痛みを抱えたまま、窓の外に広がる夏の夜空を見上げた。女神の意志がどこにあるにせよ、俺は、彼女が繋いでくれたこの小さな命と共に、来るべき冬へと歩き出す。

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