第12話「フォルネリアの春」
第12話「フォルネリアの春」
黒い雷雨暦(KR)235年。
フォルネリア辺境侯国の厳しい冬が明け、大地を覆っていた雪が解け始めると、そこには驚くほど鮮やかな緑の絨毯が広がっていた。芽吹いたばかりの草木の香りが、湿り気を帯びた風に乗って小屋の中まで入り込んでくる。
ヴィーナを引き取ってから、二度目の春。
五歳を過ぎた少女は、今や春の訪れを全身で謳歌していた。
「おとうさん! これ、おとうさんに!」
小屋の周りを駆け回っていたヴィーナが、息を切らせて戻ってきた。その小さな掌には、摘みたての青い小さな花が握られている。
「……いらん。飾る場所もない」
「えー! きれいだよ! ほら、いいにおいするし!」
(レイクス、受け取ってあげなさいよ。あの子があなたのために選んだんだから)
胸の奥で、いつものようにセラの声が響く。だが、その声はどこか、薄い膜を一枚通したような微かな違和感を伴っていた。
「……そうか。そこに置いておけ」
俺はぶっきらぼうに手を出し、ヴィーナから花を受け取った。柔らかな花弁が、俺の無骨な掌の上で僅かに震える。
(……きれい。KR64年の春を思い出すわね。私たちが最初に出会った時のことを)
「……ああ」
俺は花を見つめたまま、意識を百七十年以上前へと飛ばした。
エルディナの草原、風に揺れる花々、そして、死を待つだけだった俺の前に現れた一人の少女。あの時も、今と同じような陽光が降り注いでいた。
あの日の出会いがすべての始まりであり、今の俺を形作る唯一の根源だった。
昼下がり、ヴィーナは村の子供たちと丘の上を走り回っていた。
俺は少し離れた場所で、彼女の影が遠ざかるのを静かに見守る。
「……早いな。去年の今頃は、まだ俺の足元を離れなかったというのに」
(元気ね、ヴィーナ。あんなに楽しそうに笑って)
「……食欲も旺盛だ。俺の作るスープにも、最近は文句を言わなくなった」
(ふふ。成長したわね。……ヴィーナと、あなたの料理の腕、どっちがかしら?)
「……黙っていろ」
冗談を返すセラの声は、依然として明るい。
だが、俺の中に蓄積された二百余年の「感覚」が、警鐘を鳴らしていた。
彼女の声が、遠い。
物理的な距離ではない。魂の波長が、俺の深淵から少しずつ浮上し、どこか「別の層」へ向かおうとしているような、得体の知れない乖離感。
「……セラ」
(何?)
「……お前、消えるのか」
直球すぎる問いだったかもしれない。だが、俺に飾る言葉は不要だった。
(……)
セラはすぐには答えなかった。
風が通り過ぎ、ヴィーナたちの笑い声が遠くで弾ける。
(……まだ、ここにいるわ。あなたの隣に)
「……それは『今』の話だ。俺が聞いているのは、その先だ」
(…………ねえ、レイクス。見て、あそこの春の花。本当にきれいね。去年よりも、もっと輝いて見えるわ)
彼女は明確に、話を変えた。
それは彼女なりの「肯定」だった。
俺はそれ以上、何も聞けなかった。問い詰めれば、その瞬間に彼女が光となって霧散してしまいそうで。
俺は無意識に、ヴィーナからもらった花を握る手に力を込めた。茎が折れ、花の香りが強くなる。
「おとうさーーん! こっちきて! はしろう!」
丘の向こうから、ヴィーナが大きく手を振っていた。
俺はゆっくりと立ち上がり、袴を叩いて埃を落とした。
「……五歳の子供に、全力で走れと言うのか」
「おとうさん、おそいもん! ほら、はやく!」
駆け寄ってきたヴィーナが、俺の大きな手を、小さな、しかし力強い手で引く。
俺は、普段なら考えられないような不器用な足取りで、彼女に合わせて走り出した。
(ふふ、あはは! レイクス、走り方がぎこちないわよ。もっと肩の力を抜いて!)
セラの笑い声が、風に乗って聞こえたような気がした。
俺は何も言わず、ただヴィーナの手を握り返し、春の草原を駆けた。
幸せは、指の隙間からこぼれ落ちる砂のように、確かにそこにある。
俺はこの瞬間の景色を、一瞬たりとも忘れないように、魂の奥底に深く刻み込んだ。




