第8話「影の四翼・最初の脅威」
第8話「影の四翼・最初の脅威」
アルカディアの北方に広がる荒野に、どろりとした負の魔力が沈殿していた。
偵察に出た騎兵が血まみれで帰還し、もたらされた報せは解放戦線の仮本部を震撼させた。魔王軍四大魔将「影の四翼」の一柱、その配下である精鋭部隊が、この街を「掃除」するために進軍を開始したというのだ。
「迎撃の準備を急げ! 街の手前、アグニ高地で奴らを食い止める!」
リースバルトの号令が響く。寄せ集めの戦士たちは恐怖に顔を強張らせながらも、それぞれの武器を手に取った。
そんな喧騒の中、レイクスは一人、崩れかけた石壁に背を預け、冷めた瞳で空を見上げていた。
(……魔王の尖兵か。五十年前、あいつらが最初に現れた時も、空はあんな色をしていた)
かつて大陸を蹂躙した、父・ザガル=モルドの息がかかった者たち。レイクスにとって、それは忌まわしい過去の象徴であり、同時に今の自分を構成する「半分」のルーツでもあった。
「レイクス! 行くぞ! お前の力が必要だ」
馬に跨ったリースバルトが声をかけてくる。レイクスは感情の乏しい声で短く応じた。
「……勝手にしろ。俺は俺の判断で動く」
高地に陣を敷いた解放戦線の前に現れたのは、重厚な黒鉄の鎧に身を包んだ「影の親衛隊」だった。彼らは意志を持たない殺戮機械のように、一糸乱れぬ動きで突撃してくる。
「アルカディアの誇りに懸けて! 突撃——っ!」
リースバルトが先陣を切り、剣を振るう。その剣筋は鋭く、数体の魔兵を叩き伏せる。だが、部隊の中央に座す、魔将の力を分かたれた「影の指揮官」が動いた瞬間、戦況は一変した。
指揮官が振るう大鎌が、一振りで人間側の前線をなぎ払う。リースバルトも必死に打ち合うが、放たれる瘴気の重圧に、その膝がわずかに震えた。
(……やはり、今の人間ではあれが限界か)
後方で傍観していたレイクスが、静かに歩み出した。
本来なら、ここで彼らを見捨てて去ることもできた。だが、リースバルトの「諦めない瞳」が、五十年前の自分が見ることのできなかった「あり得たかもしれない未来」を映しているようで、わずかに心が揺れた。
「……どけ、リースバルト。死にたいわけではないだろう」
戦場に場違いなほど静かな声が通り、レイクスが指揮官の前に立つ。
指揮官の魔族は、小柄な少年にしか見えないレイクスを鼻で笑い、大鎌を振り下ろした。
——その刹那、空気が爆ぜた。
レイクスが「女神の指輪」を嵌めた左手をかざすと、夜よりも深い、漆黒の雷が天から降り注いだ。
「——黒雷、全展開」
**ドォォォォォン!!**
空間そのものを焼き切るような轟音と共に、真っ黒な稲妻が指揮官を直撃した。魔族が放つ闇の魔力を、さらに上位の「純粋な破壊」が飲み込んでいく。光を放つはずの雷が光を吸い込み、周囲を一瞬で完全な暗黒に染め上げた。
雷光が収まった後、そこには指揮官だった灰の山と、焦土と化した大地だけが残されていた。
さっきまでの激戦が嘘のように、戦場は静まり返った。解放戦線の戦士たちは、武器を握るのも忘れて、立ち尽くす銀髪の少年の背中を見つめていた。その力は、もはや「人間の魔法」の範疇を遥かに逸脱していた。
「あ……ああ……」
リースバルトが、震える手で剣を支えに立ち上がる。
レイクスは、眉ひとつ動かさず、呼吸さえ乱れていない様子で、淡々と剣を鞘に収めた。魔力の消耗を感じさせないその所作は、まるで散歩でも終えたかのようだった。
「レイクス……。お前、本当は何者なんだ。その力……その目は……」
リースバルトの問いには、純粋な驚愕と、どこか拭いきれない畏怖が混じっていた。
レイクスは彼を振り返らず、ただ遠くの北の空——四大魔将が座すであろう闇の奥を見据えた。
「俺が何者かはどうでもいい。それよりも、今のうちに少しでも強くなっておけ」
「え?」
「四大魔将の一柱が直接来る前に、だ。今のままでは、お前たちは呼吸すら許されずに塵になるぞ」
その言葉は冷たく、だが確かな警告としてリースバルトの胸に突き刺さった。五十年の孤独の中で、常に死と隣り合わせで生きてきたレイクスが見せる「現実」の重み。
アルカディアへと引き上げる隊列の中、レイクスとリースバルトの間に、以前とは違う、より深く、より危険な緊張感が漂い始めていた。




