第10話「中間章・232年目の幸福」
第10話「中間章・232年目の幸福」
KR234年、夏。フォルネリア辺境侯国の昼下がりは、ただ蝉時雨と麦の波が揺れる音だけが支配していた。
この数ヶ月、俺の日常は驚くほど単調で、驚くほど色鮮やかだった。朝起きてヴィーナに朝食を与え、庭先で薪を割り、彼女が村の子供たちと泥だらけになって遊ぶ姿を遠くから見守る。かつての大陸全土を揺るがした動乱も、ヴァルトニアの重責も、ここでは陽炎の向こう側の出来事のように思えた。
ヴィーナが村の友人たちに誘われ、意気揚々と森の入り口まで出かけていった後。
小屋の縁側に腰を下ろし、俺はただ静かに、揺れる木漏れ日を眺めていた。十五歳の少年のまま止まった肉体と、二百三十二年という膨大な時を刻んだ精神。その奇妙な乖離の隙間に、一陣の風が吹き抜ける。
(ねえ……レイクス。今、幸せ?)
不意に、胸の奥で光が微かに瞬き、セラの声が響いた。
幸せか。かつての俺なら、その問いを鼻で笑って切り捨てていただろう。復讐に燃えていた頃も、王国の暗部として手を汚していた頃も、幸福などという言葉は、俺の辞書から最も遠い場所にあった。
「……わからない」
俺は視線を落とさず、独り言のように答えた。だが、その言葉には以前のような突き放す響きはなかった。
「だが……。俺が守りたいものが、また一つ増えた。それは……悪くないと思っている」
(ふふ。それがあなたの『幸せ』の言い方なのね。相変わらず不器用なんだから)
セラの声は、春の陽だまりのように穏やかだった。しかし、その後に続く問いには、少しだけ茶目っ気のある好奇心が混じっていた。
(ねえ、ちゃんと教えてよ。ヴィーナに『おとうさん』って呼ばれた時の気持ち。本当はどう思ってるの?)
「……うるさい。何度も聞くな」
(教えてよ。私はあなたの心の中にいるんだから、隠しても無駄よ?)
俺は長い沈黙を置いた。
「おとうさん」。その響きを思い出すだけで、指先にまで微かな痺れが走るような気がした。
「……重かった」
(重い?)
「……責任という名の重さだ。一人の人間の、それもあんなに小さく、脆い命のすべてを託されたという重圧。……かつて五百の騎士団を率いた時よりも、一国を背負わされた時よりも、重く感じた」
俺は自分の掌を見つめた。これまで幾多の命を奪い、幾多の決断を下してきた手だ。
「……しかし。それは、悪い重さではなかった」
(それが、父親になるっていうことよ、レイクス。誰かの未来のために、自分を半分だけ手放すこと。……ねえ、あなたはもう、立派なパパなのよ)
「……そうかもしれないな」
認めたくはなかった。だが、そう言葉にした瞬間、憑き物が落ちたように心が軽くなるのを感じた。二百三十二年間、俺は「誰かのため」に戦ってきたが、これほどまでに「誰かの存在そのもの」を愛おしいと感じたことはなかった。
だが、その安らぎを切り裂くように、セラの気配が微かに揺らいだ。
光の密度が薄まり、彼女の声がどこか遠い場所から響いているような錯覚に陥る。
(私ね……レイクス。また、少しだけ遠くなった気がするの)
俺の思考が、一瞬で氷結した。
「……また、その話か。前も言ったはずだ。気のせいだと」
(ごめんね。でも……正直に言いたいの。あなたにだけは、隠し事をしたくないから)
セラの言葉は、透き通るような静謐さを帯びていた。
俺は強く拳を握りしめ、ストームリングの冷たい感触に意識を集中させた。動揺を悟られまいとするのは、もはや染み付いた習性だ。だが、内側から溢れ出す冷たい汗を止めることはできない。
「……いつだ」
(まだ、はっきりとはわからない。でも……そう遠くない。何かが私を呼んでいる。それは、とても懐かしくて、でも、ここではないどこか……)
「……そうか」
それ以上、俺は何も聞けなかった。
問えば、その不吉な予感が確定してしまう気がした。
百七十年間、俺はセラの魂の欠片を抱いて生きてきた。それが失われるということは、俺の半分が死ぬことと同義だ。
沈黙が小屋の空気を重く塗り潰す。俺はただ、彼女を宿す自分の胸元を、痛いほど強く押さえた。
「……行くなと言っても、行くのか」
(…………)
セラは答えなかった。ただ、優しく、包み込むような光の波が俺の意識を撫でただけだった。
その時。
「おとうさーーん! 見て見て! むしとったよ!」
静寂を豪快に蹴散らすように、ヴィーナが庭に飛び込んできた。
膝のあたりまで泥で汚れ、麦わら帽子の下で顔を上気させた彼女の手には、一匹の黄金色に輝く大きな甲虫が握られていた。
俺は咄嗟に動揺を顔の奥へ押し込み、いつもの老成した、仏頂面の仮面を被り直した。
「……いらん。そんなもの、家の中に持ち込むな」
「ええー! きれいだよ! ほら、きらきらしてる!」
ヴィーナは俺の冷たい言葉など露ほども気にせず、目の前に甲虫を突き出してきた。その無邪気な生命力の塊のような姿に、俺は毒気を抜かれ、わずかに肩の力を抜いた。
(ふふ、ふふふ……。レイクス、嫌そうな顔。でも、ちゃんと見てあげてるのね)
頭の中で、セラの笑い声が弾けた。
さっきまでの不穏な予感などなかったかのように、彼女の声は再び活気を取り戻していた。
「……汚れる。向こうで放してこい」
「えー、もっと見せたいのにー!」
ヴィーナは不服そうに口を尖らせながらも、嬉しそうに庭の草むらへと走っていった。
その背中を眺めながら、俺は心に誓った。
セラがいつか遠くへ行くというのなら。
せめてそれまでは、この温かな、どうしようもなく不器用な日常を守り抜いてみせると。
KR234年、夏。
大陸の南端で、一人の半魔族と、一人の少女、そして姿なき聖女の「三人の暮らし」は、終わりに向かう輝きを増していく。




