第9話「ヴィーナの光」
第9話「ヴィーナの光」
フォルネリア辺境侯国の夏は、眩いばかりの緑と、どこまでも澄んだ青空に彩られていた。
KR234年。この平穏な村での暮らしも数ヶ月が過ぎ、ヴィーナの頬にはかつての土気色は消え、柔らかな朱が差すようになっていた。
その日の午後。俺は小屋の裏手で薪を割っていた。
不意に、少し離れた茂みの向こうから、ヴィーナの泣きじゃくる声が聞こえてきた。
「どうした」
斧を置き、地を蹴る。十五歳の少年の身体に宿る身体能力は、一瞬で彼女の元へと俺を運んだ。
そこには、一匹の野良猫を抱えて地面に座り込むヴィーナの姿があった。猫の足には、罠か何かにかかったのか、生々しい裂傷がある。
「かわいそう……いたいいたいしてるの。おにいちゃん、なおしてあげたい……っ」
大粒の涙をこぼしながら、ヴィーナが猫を抱きしめる。
俺の手元にあるのは、命を奪うための力だ。止血程度の応急処置はできるが、この幼い少女が望むような「救済」を、俺の雷光は持ち合わせていない。
「……セラ。この傷は……」
(レイクス、見て!)
セラの叫びに視線を戻す。
ヴィーナが猫の傷口にそっと手を添えた瞬間だった。彼女の小さな掌から、雪解けの雫のような、淡く、清らかな光が溢れ出した。
眩いほどではない。しかし、それは間違いなく、この不毛な時代には稀有な「聖」の属性を持つ魔力だった。光が触れた箇所から、猫の傷がみるみるうちに塞がり、毛並みが戻っていく。
「……てが、ひかった! おにいちゃん、なおったよ!」
ヴィーナが驚きと喜びの声を上げる。
俺はその光景を、言葉もなく見つめていた。
「……聖魔法の素質か」
(……そうね。それも、驚くほど純粋な……)
セラの声が、どこか懐かしむように震えた。
(……ねえ、レイクス。あの子の今の横顔、少しだけ、昔の私に似てなかった?)
(……ああ。お前と同じ、馬鹿正直で真っ直ぐな力だ)
その光は、かつて俺が守りきれなかった「エルディナの光」を彷彿とさせた。この子は、俺がかつて失ったものをその手に宿している。
「おにいちゃん、これってなに? びりびりしなかったよ?」
ヴィーナが不思議そうに自分の掌を見つめる。
「……力だ。人を助けるための、お前だけの特別な力だ」
「助けるちから……。**おとうさん**みたいに?」
――その一言に、俺の時間は静止した。
「……おとうさん?」
聞き返した声が、自分でも驚くほど掠れていた。
ヴィーナは少しだけ恥ずかしそうに、しかし確かな意志を込めて俺を見上げた。
「だって、村のみんなもそういってるし……。おにいちゃん、ずっとヴィーナのこと守ってくれるから。おにいちゃんじゃない、おとうさんだなって」
二百三十四年の生涯で、これほどまでに動揺したことがあっただろうか。
俺は視線を逸らし、不自然に喉を鳴らした。
「……俺は、違う種類の力だ。俺の手は、お前のように人を癒やすことはできない。……壊すためのものだ」
「おんなじだよ! おんなじ、たすけるやつ! だから、おとうさんといっしょ!」
ヴィーナは俺の袖をぎゅっと掴み、無邪気に笑った。
その無垢な信頼が、俺の中に残っていた冷たい石のような心を、内側から溶かしていく。
(……「おとうさん」って呼ばれたわね、レイクス)
(……聞こえていた。幻聴ではない)
(ふふ。嬉しかった?)
(……黙っていろ。ただ、責任が重くなっただけだ)
(嘘つき。……顔が赤いわよ、パパ)
セラが弾むような声で揶揄う。俺は再び薪割りに戻るふりをして、彼女に背を向けた。
その日の夜。
寝床に入ったヴィーナが、眠りに落ちる寸前にぽつりと呟いた。
「あのね……きょう、女神さまのゆめをみたの」
「女神……ヴィーナバニースか?」
「わかんないけど……とってもきれいなひと。そのひとがね、おとうさんにまもってもらいなさいって。いまはまだ、ちいさな光でいいんだよって、わらってたの」
ヴィーナはそのまま、満足そうに眠りについた。
俺は暗闇の中で、セラの気配を感じた。
姿は見えない。だが、俺たちは静かに、深く、視線を交わした確信があった。
聖魔法。女神の夢。
この平穏なフォルネリアの小屋に舞い込んだ少女は、ただの迷子ではない。
世界の理が、あるいは女神の意志が、俺にこの子を託したのだ。
「……守るぞ、セラ。何があっても」
(ええ。……それが、私たちの最後の仕事になるかもしれないわね)
セラの言葉に、俺は僅かな胸騒ぎを覚えた。
ヴィーナの光が強くなるほどに、彼女を宿す俺の中の光が、透き通っていくような気がして――。




