第8話「三人の暮らし」
第8話「三人の暮らし」
KR234年、夏。
フォルネリア辺境侯国の端、麦畑が黄金色に波打つ丘の上に、俺たちの「家」はあった。
かつては王宮の最上階や、ヴァルトニアの堅牢な邸宅を根城にしていた俺だが、今は雨風を凌ぐだけの質素な木造小屋に、五歳の少女と、姿なき魂と共に暮らしている。
「ねえ、おにいちゃん! ごはんは? おなかへったー!」
朝陽が差し込むと同時に、ヴィーナの元気な声が小屋の空気を震わせる。
「……今作っている。静かにしろ」
俺は台所で、これまでの人生で一度も握ったことのない包丁を手に立ち尽くしていた。戦場での野営飯なら慣れたものだが、「幼児の口に合う食事」となると話は別だ。
とりあえず、昨日村の農家から分けてもらった野菜と肉を鍋に放り込み、適当に香辛料を振って煮込んでみる。出来上がったのは、何とも表現しがたい赤黒いスープだった。
「……食え」
ヴィーナは期待に満ちた目で一口運んだが、直後、その小さな顔が劇的に歪んだ。
「……からい。おにいちゃん、これ、ベロがピリピリする」
「……そうか。味に深みを出そうとしたのだが」
(レイクス……。それ、戦場で兵士に食べさせる激辛スープじゃない。もう少し食べる相手のことを考えて作って)
セラの呆れたような声が響く。
(……どうすればいい。味覚というものは、個人の主観ではないのか)
(主観以前に、この子は五歳なの! もっと甘くて柔らかいもの。明日からは蜂蜜とお塩だけで味付けしてみて)
翌日。
俺はセラの指示を忠実に守り、細心の注意を払ってスープを作った。
ヴィーナが恐る恐る一口飲み、今度は「あまーい! おいしい!」と満面の笑みを浮かべた時、俺は魔将を討ち取った時以上の達成感で、思わず小さく拳を握りしめていた。
午後の日差しが和らぐ頃、ヴィーナは村の広場へ遊びに出かける。
俺は少し離れた大樹の影に立ち、腕を組んでその様子を見守るのが日課となっていた。
「……危なくないか。あの少年、ヴィーナを突き飛ばしそうな動きをしている」
(大丈夫よ、レイクス。ただの追いかけっこじゃない。子どもはああやって強くなるんだから)
「……そういうものか。一歩間違えれば怪我をする。ストームリングで牽制した方がいいか?」
(絶対にダメ。過保護すぎて村中の噂になっちゃうわよ)
ヴィーナは泥だらけになりながら、村の子どもたちと笑い声を上げて走り回っている。その光景は、二百数十年前の俺が見てきた戦火の風景とはあまりにかけ離れていた。
「……平和だな」
(ええ。あなたが望んで、あなたが守りたかった景色よ、レイクス)
夜、小さな灯火の下で、ヴィーナが俺の膝に潜り込んできた。
「おにいちゃん、おはなしして? ねる前のおはなし!」
「……俺は話が得意ではない。セバスやゼフィールの方が面白いことを言うだろう」
「やだ! おにいちゃんがいい! むかしのこと、ききたい!」
ヴィーナの真っ直ぐな瞳に根負けし、俺は記憶の断片を手繰り寄せた。
「……昔、俺と一緒に歩いた男がいた。名はリースバルト。不器用で、頑固で、それでいて誰よりも正義感が強い人間だった」
「そのひと、つよかった?」
「……心は強かった。俺が道を見失いそうになった時、いつもその背中が標べになった」
俺の朴訥とした語りに、ヴィーナは目を輝かせながら耳を傾けていた。やがて彼女の瞼が重くなり、俺の膝を枕にして穏やかな寝息を立て始める。
(上手よ、レイクス。ちゃんと伝わっているわ)
「……そうか。ただの事実を述べただけだ」
深夜。ヴィーナを寝床へ運び、俺は月明かりの下で独り、セラの光と向き合った。
(ねえ、レイクス……。どう? この三人の暮らしは)
「……うるさい。不便極まりない。毎日が想定外の連続だ」
(ふふ。悪くない?)
俺は夜風に吹かれながら、長い沈黙を置いた。
ヴァルトニアの権力も、エルディナの栄華もない。ただ、小さな娘の笑い声と、愛しい魂のささやきがあるだけの日常。
「…………悪くない」
(ふふ。よかった。……本当に、よかった)
セラの返答は、どこか遠い場所で鳴る鐘のように、優しく、そして切なく響いた。
この温かな日常が、いつか訪れる別れの前奏曲であることを、俺はまだ認めたくなかった。




