第7話「フォルネリアへの道」
# 解放戦線編 第4章「忘却の聖女」
## 第7話「フォルネリアへの道」
KR234年。新緑が芽吹く季節、俺たちは大陸南部を縦断する街道を西へと向かっていた。
傍らを歩くヴィーナは、出会った当初の沈鬱な様子が嘘のように、見るものすべてに瞳を輝かせていた。子供の回復力というものは、時に残酷なまでに凄まじい。彼女にとっての「昨日までの地獄」は、俺の手を握るという新しい日常によって、急速に塗り潰されようとしていた。
「ねえねえ、おにいちゃん! あのお花なあに?」
ヴィーナが道端に咲く黄色い小花を指差す。
「……草だ」
「じゃあ、あの雲は? どこいくの?」
「……風に流されているだけだ。雲だ」
「おにいちゃん、腰に剣ついてる。つよいの?」
「……強い」
俺の短すぎる回答に、ヴィーナは不満そうに頬を膨らませた。
(レイクス……。もう少し丁寧に答えてあげて。子供にとっては世界全部が不思議なのよ)
セラの呆れたような声が響く。
(……これで十分だ。事実を正確に伝えている)
(「雲だ」は答えになってないわ。……全く、二百年以上生きてるんだから、もう少し語彙を増やしなさいよ)
そんなやり取りをしていると、ヴィーナが不意に足を止め、俺の旅装の裾をぐいぐいと引っ張った。
「おにいちゃん……足、いたい。だっこして」
俺の思考が、一瞬だけ停止した。
「だっこ」。エゴゴブリンの村で彼女を見つけた際、不器用にもほどがある抱き上げ方を披露したばかりの難題だ。
(ほら、チャンスよ。抱っこしてあげて)
(……わかっている。だが、足の筋肉が……いや、効率が悪い)
(屁理屈を言わない!)
俺は深くため息をつき、ひざまずいてヴィーナの小さな身体を腕の中に収めた。壊れ物を扱うような、それでいてがっしりとした抱擁。彼女を抱き上げると、その幼い温もりが胸板を通して伝わってきた。
しばらく歩くと、ヴィーナの規則正しい寝息が聞こえてきた。俺の肩に顔を埋め、完全に意識を手放している。
「……重い」
(ふふ。それが『子供』という重みよ。慈しみの質量ね)
「……そうか」
俺はそう答えながらも、彼女を降ろそうとはしなかった。ただ歩幅を緩め、衝撃が伝わらないよう慎重に道を選んで歩く。
やがて、街道は古い石橋を越えた。
その光景に、俺の記憶の深淵が静かに波立った。
「……百五十年前。ここを歩いた」
(リースと?)
セラの声が、少しだけ懐かしむような響きを帯びる。
「……ああ。解放戦線として、リースバルトと共にこの道を南へ下った時のことだ。あの時の俺は、ただひたすらに前だけを見ていた。大陸を覆う戦火を消し、お前の故郷を守り抜く……それだけが、俺の歩みを規定するすべてだった」
かつての俺は、この道をただの戦略的経路としてしか見ていなかった。未来のために今を削り、義務感だけで土を踏み締めていたのだ。腕の中に誰かの温もりを感じながら歩くなど、想像の余地すらなかった。
(今は……どう?)
セラの問いかけに、俺は腕の中の小さな重みに視線を落とした。
泥だらけの靴、無防備な寝顔。俺を「おにいちゃん」と呼び、疑いもなくその運命を預けてきた少女。
「…………変わったな」
それだけを答えた。
大義や世界のためではなく、目の前の一つの体温を守るために歩く。二百三十余年の時を経て、俺は初めて、名もなき旅人のような心境でこの土を踏んでいた。
夕闇が迫る頃、視界の先にフォルネリア辺境侯国の田舎の村が見えてきた。
豊かな麦畑と、穏やかに煙を上げる民家。ここなら、エルディナの政争も、四大魔将の影も、届くには時間がかかるだろう。
ヴィーナが目を覚まし、眠たげに目をこすりながら村を指差した。
「あそこに……すむの?」
「……しばらくな。追手が来るまでは、あそこがお前の家だ」
「おにいちゃんと一緒に?」
「ああ」
「ずっとがいい! お外、こわいもん。ずっとあそこで、おにいちゃんと一緒がいい!」
ヴィーナがにっこりと笑う。その無邪気な「ずっと」という言葉に、俺は再び言葉を詰まらせた。
不老の俺にとっての「ずっと」と、人間の子供にとっての「ずっと」は、意味も重みも違う。
(「ずっと一緒にいようね」って言ってあげなさいよ)
(……うるさい、セラ。……気安く約束などできるか)
俺はヴィーナを抱いたまま、村へと続く坂道を下り始めた。
降ろして歩かせればいいものを、俺は目的地に着くまで、その腕を解くことはなかった。




