第6話「娘として育てなさい」
第6話「娘として育てなさい」
夜明け前の蒼い光が、森の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
焚き火の最後の一片が爆ぜ、白い灰となって崩れ落ちる。傍らでは、俺のマントに包まったヴィーナが、昨夜の恐怖が嘘のように穏やかな寝息を立てていた。
二百三十四年生きてきても、この時間はいつも静寂が重い。
沈黙の中、胸の奥で光が微かに瞬いた。
(ねえ、レイクス)
「……何だ」
声に出さず、意識の底で応じる。
(この子……育てなさい)
セラの言葉は、唐突で、それでいて揺るぎない確信を孕んでいた。
俺は思考を止めたまま、長い、長い沈黙を挟んだ。
「……俺が?」
(そう。あなたの娘として)
「……冗談はやめろ。俺には無理だ」
即座に否定した。
魔将を斬り、軍を動かすことならできる。だが、一人の幼子の「親」になるなど、俺の設計図(人生)には書き込まれていない機能だ。
(なんで? なんで無理なの?)
「……俺は、子供の育て方を知らない。食事の与え方も、服の着せ方も、その心が何に傷つくのかも……何一つ、学んでこなかった」
(私も知らなかったわよ。……もし、あのまま生きていたとしても)
セラの声が、一瞬だけ寂しげに揺れた。だが、すぐにそれは春の陽だまりのような暖かさを取り戻す。
(でもね、レイクス。あなたはもう、知ってるはずよ)
「……何をだ」
(あなたは、孫のリースに剣を教えた。エレオノーラに「怖い顔のおじちゃん」って言われて、困りながらもそれを受け入れた。ルインの真っ直ぐな目を見て、「よし」と言って背中を押した……。それが全部、あなたが積み上げてきた『慈しみ』じゃない。あなたはもう、立派に人を育てる心を知ってるわ)
俺は何も言えなかった。
それはかつて「ヴァルトニアの主」として、責任上果たしてきたことだと思っていた。だが、セラはそれを俺の「心」だと言う。
「お前が……そこまで言うのか」
(うん。この子は……絶対に、あなたの娘にならなきゃいけない子だと思うの。……名前が、そう言ってる気がするのよ)
ヴィーナ。女神の名を持つ少女。
セラの言葉の裏には、直感以上の、何か「魂の義務」のような重みがあった。自分がいつか消えることを見越して、俺の隣に新しい席を用意しようとしているような……そんな、痛切なまでの配慮。
「…………」
俺が再び沈黙に沈んでいると、マントの山がもぞもぞと動き出した。
寝ぼけ眼をこすりながら、ヴィーナが顔を出す。俺の姿を認めると、彼女の顔にパッと花が咲いたような安堵が広がった。
「……おにいちゃん、まだいた。どっかいっちゃったかと思った」
「……俺は、おにいちゃんではないと言っただろう」
少しの間をおいて、俺は彼女を直視した。その真っ直ぐな瞳から逃げてはいけない気がした。
「じゃあなに?」
「……お前の……」
言葉が喉に引っかかる。「父親」という三文字が、あまりに重くて、不器用な俺の唇を通過できない。
(お父さん、って言って。ほら、練習!)
(……うるさい、セラ。黙っていろ)
俺はひとつ、大きなため息をつき、ヴィーナの頭にぎこちなく手を置いた。
「……しばらく、一緒にいる。お前が一人で生きていけるようになるまでな」
ヴィーナは俺の言葉の意味を咀嚼するように数秒止まり、やがて満面の笑みで頷いた。
「うん!」
(「しばらく」じゃないのよ、レイクス。一生よ)
(……わかっている)
(ふふ。いいパパになりそうね)
セラが揶揄うように笑う。俺は不機嫌な顔を隠すように、焚き火の跡を足で崩した。
「……ここを発つぞ。南西に向かう」
「どこにいくの?」
「フォルネリア辺境侯国だ。あそこの田舎なら……静かに、お前を育てられる」
(フォルネリア……。懐かしいわね。あなたが昔、少しだけ立ち寄った場所)
(……ああ。あそこならヴァルトニアの影も薄い。エルディナの王宮からも、三柱の監視からも……しばらくは離れられるだろう)
レイクス=ヴァルトニアとしてではなく。
ただの、名もなき「父」として。
俺は小さなヴィーナの手を引き、深い森を歩き出した。
背後で笑うセラの光が、いつもより少しだけ、透き通って見えた。




