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レイクス戦記  作者: ゆう
第4章「忘却の聖女」

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第5話「ヴィーナという名前」

第5話「ヴィーナという名前」


 KR234年。エゴゴブリンによって蹂躙された廃村を背に、俺は少し離れた川辺で野営を張っていた。

 焚き火の爆ぜる音が、静寂の中にリズムを刻む。俺の向かい側では、旅装の外套マントに包まった少女が、膝を抱えてじっと火を見つめていた。泥を拭い、顔を洗わせた彼女は、月明かりの下で驚くほど白く、儚げに見えた。

 数時間の沈黙が流れた後、俺は努めて静かに口を開いた。

「……名前は」

 少女はびくりと肩を揺らし、恐る恐る俺を見た。その瞳に宿る恐怖は、温かな火の色によって少しずつ溶かされているようだった。

「……ヴィーナ」

 その瞬間、俺の思考が氷結した。

(…………っ、レイクス)

 魂の深淵で、セラが息を呑む気配がした。俺の心臓が、自分でも驚くほどの速さで鼓動を打つ。

(……ああ。聞こえた)

(女神ヴィーナバニースと……同じ名前。この大陸で、その名を子に付ける親は……決して少なくないけれど)

(……偶然か。それとも)

(偶然じゃないと思う。私……なんだか、胸が騒ぐの。この子には、何か……)

 セラの確信に満ちた、しかしどこか怯えるような響きを、俺はあえて沈黙で流した。

 女神の名を冠する少女。目の前の小さな存在が、伝説とどう結びつくのか、今の俺には測りかねた。

 ふと、少女――ヴィーナが、首を傾げて俺を凝視した。

「……おにいちゃん?」

「……俺は兄ではない。歳も、種族も違う」

 二百三十余年を生きる半魔族を「兄」と呼ぶには、人類の歴史が短すぎる。だが、ヴィーナは不思議そうに目を丸くした。

「じゃあなに?」

「……通りがかりだ。たまたま、そこにいただけの男だ」

(ふふ。相変わらずね、レイクス。素直に『命の恩人だ』って言えばいいのに)

 セラの揶揄からかうような声に、俺は眉を寄せた。

 グゥ、と。

 場違いな音が、ヴィーナの小さな腹から鳴り響いた。彼女は恥ずかしそうに腹を抑え、顔を赤くする。

「……腹が減ったのか」

「……うん」

「……何が食べられる。硬い肉は無理か。スープか、それともパンをふやかすか……」

 俺は慌てて荷物を探った。五百の騎士団に指示を出すのは容易だが、幼児の栄養バランスを考えるのは、魔王を討つより難題に思えた。不器用な手つきで鍋を火にかけ、干し肉を細かく刻み、野菜を放り込む。

「……何が食べたい」

「なんでも! なんでもたべる!」

 元気な返事に少しだけ毒気を抜かれ、俺は薄味のスープを作り上げた。ヴィーナは差し出された木匙を握りしめ、熱いスープをふーふーと吹きながら、夢中で口に運んだ。

「……おいしい」

「そうか。ならいい」

 少しずつ腹が満たされてきたのか、ヴィーナの口からぽつりぽつりと、言葉がこぼれ始めた。

「……あのね。おとうさんも、おかあさんも……いなくなっちゃったの」

 スープを運ぶ手が止まる。ヴィーナの視線は、虚空を彷徨っていた。

 

「『隠れてなさい』って言われて……。ずっと暗いところにいたの。そしたら、変な声がいっぱい聞こえて……。お外が静かになっても、怖くて出られなかったの」

 俺は、何も言えなかった。

 かけるべき言葉など、この世のどこにも存在しないことを知っていたからだ。二百年以上、俺が繰り返し見てきた「喪失」の光景。それをこの幼い子供が、たった一人で受け止めたのだ。

(……レイクス。この子の手を、握ってあげて)

(……俺の血の通わない手でか。逆効果だ)

(そんなことないわ。今は、体温が必要なのよ。……お願い)

 俺は迷った末、彼女の小さな肩に、そっと大きな掌を置いた。

 ヴィーナは一瞬身を強張らせたが、やがて俺の腕にすがり付くようにして、そのまま深い眠りに落ちていった。

 パチパチと薪が燃える音だけが残る。

 腕の中で規則正しい呼吸を繰り返すヴィーナを見つめながら、俺は再び魂の相棒に問いかけた。

「……セラ。この子、どうする」

(……)

 セラはすぐには答えなかった。

 何かを遠くで見つめているような、あるいは、運命の糸を慎重に手繰り寄せているような、重い沈黙。

(今は……ただ、寝かせてあげて。明日になれば、きっと道が見えるわ。……私たちの、新しい道が)

 セラの声は、慈愛に満ちていた。

 だがその響きに、俺は消え入りそうな「覚悟」が混じっているような気がして、無意識に腕の中の少女を強く抱き寄せていた。

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