第5話「ヴィーナという名前」
第5話「ヴィーナという名前」
KR234年。エゴゴブリンによって蹂躙された廃村を背に、俺は少し離れた川辺で野営を張っていた。
焚き火の爆ぜる音が、静寂の中にリズムを刻む。俺の向かい側では、旅装の外套に包まった少女が、膝を抱えてじっと火を見つめていた。泥を拭い、顔を洗わせた彼女は、月明かりの下で驚くほど白く、儚げに見えた。
数時間の沈黙が流れた後、俺は努めて静かに口を開いた。
「……名前は」
少女はびくりと肩を揺らし、恐る恐る俺を見た。その瞳に宿る恐怖は、温かな火の色によって少しずつ溶かされているようだった。
「……ヴィーナ」
その瞬間、俺の思考が氷結した。
(…………っ、レイクス)
魂の深淵で、セラが息を呑む気配がした。俺の心臓が、自分でも驚くほどの速さで鼓動を打つ。
(……ああ。聞こえた)
(女神ヴィーナバニースと……同じ名前。この大陸で、その名を子に付ける親は……決して少なくないけれど)
(……偶然か。それとも)
(偶然じゃないと思う。私……なんだか、胸が騒ぐの。この子には、何か……)
セラの確信に満ちた、しかしどこか怯えるような響きを、俺はあえて沈黙で流した。
女神の名を冠する少女。目の前の小さな存在が、伝説とどう結びつくのか、今の俺には測りかねた。
ふと、少女――ヴィーナが、首を傾げて俺を凝視した。
「……おにいちゃん?」
「……俺は兄ではない。歳も、種族も違う」
二百三十余年を生きる半魔族を「兄」と呼ぶには、人類の歴史が短すぎる。だが、ヴィーナは不思議そうに目を丸くした。
「じゃあなに?」
「……通りがかりだ。たまたま、そこにいただけの男だ」
(ふふ。相変わらずね、レイクス。素直に『命の恩人だ』って言えばいいのに)
セラの揶揄うような声に、俺は眉を寄せた。
グゥ、と。
場違いな音が、ヴィーナの小さな腹から鳴り響いた。彼女は恥ずかしそうに腹を抑え、顔を赤くする。
「……腹が減ったのか」
「……うん」
「……何が食べられる。硬い肉は無理か。スープか、それともパンをふやかすか……」
俺は慌てて荷物を探った。五百の騎士団に指示を出すのは容易だが、幼児の栄養バランスを考えるのは、魔王を討つより難題に思えた。不器用な手つきで鍋を火にかけ、干し肉を細かく刻み、野菜を放り込む。
「……何が食べたい」
「なんでも! なんでもたべる!」
元気な返事に少しだけ毒気を抜かれ、俺は薄味のスープを作り上げた。ヴィーナは差し出された木匙を握りしめ、熱いスープをふーふーと吹きながら、夢中で口に運んだ。
「……おいしい」
「そうか。ならいい」
少しずつ腹が満たされてきたのか、ヴィーナの口からぽつりぽつりと、言葉がこぼれ始めた。
「……あのね。おとうさんも、おかあさんも……いなくなっちゃったの」
スープを運ぶ手が止まる。ヴィーナの視線は、虚空を彷徨っていた。
「『隠れてなさい』って言われて……。ずっと暗いところにいたの。そしたら、変な声がいっぱい聞こえて……。お外が静かになっても、怖くて出られなかったの」
俺は、何も言えなかった。
かけるべき言葉など、この世のどこにも存在しないことを知っていたからだ。二百年以上、俺が繰り返し見てきた「喪失」の光景。それをこの幼い子供が、たった一人で受け止めたのだ。
(……レイクス。この子の手を、握ってあげて)
(……俺の血の通わない手でか。逆効果だ)
(そんなことないわ。今は、体温が必要なのよ。……お願い)
俺は迷った末、彼女の小さな肩に、そっと大きな掌を置いた。
ヴィーナは一瞬身を強張らせたが、やがて俺の腕に縋り付くようにして、そのまま深い眠りに落ちていった。
パチパチと薪が燃える音だけが残る。
腕の中で規則正しい呼吸を繰り返すヴィーナを見つめながら、俺は再び魂の相棒に問いかけた。
「……セラ。この子、どうする」
(……)
セラはすぐには答えなかった。
何かを遠くで見つめているような、あるいは、運命の糸を慎重に手繰り寄せているような、重い沈黙。
(今は……ただ、寝かせてあげて。明日になれば、きっと道が見えるわ。……私たちの、新しい道が)
セラの声は、慈愛に満ちていた。
だがその響きに、俺は消え入りそうな「覚悟」が混じっているような気がして、無意識に腕の中の少女を強く抱き寄せていた。




