第3話「170年目の問い」
第3話「170年目の問い」
KR233年、春。
大陸南部の夜は、北部に比べて湿り気を帯びていた。
いくつもの廃村を通り過ぎた森の端、俺は小さな焚き火を囲んでいた。爆ぜる薪の音だけが、静寂の支配する闇に等間隔の亀裂を入れる。
十五歳の少年の姿。しかしその赤い瞳は、この場所で起きた惨劇の残滓を、そして過ぎ去った膨大な時間を、静かに見据えていた。
(ねえ……百七十年経ったね。私が、あの場所で死んでから)
ふいに、胸の奥で光が揺らぎ、セラの声が鼓膜を震わせた。
KR65年、エルディナの惨劇。彼女がその命を散らし、魂の欠片となって俺の心に宿ったあの日。
「……ああ」
俺は短く応じた。掌を焚き火に翳すが、その熱は肌の上を滑るだけで、心の芯までは届かない。
(長かった、レイクス? ……この百七十年という時間は)
「……長い。しかし、短くもあったな」
(どういう意味?)
問いかけに、俺は少しの間、沈黙を挟んだ。
俺の生は、もはや「年」という単位では計れないものに変質している。
「覚えているのは……点だ。連続した時間ではなく、鮮烈な断片として記憶に残っている」
視線を揺れる炎に向ける。
「お前と共に過ごした、あの穏やかすぎた四季の移ろい。リースバルトという青年に出会い、彼が覚悟を決めた瞬間。その孫のリースが初めて剣を握り、俺を『先生』と呼んだ時の目の輝き。騎士団試験に現れたルインの不敵な目……そして、セバスが平然と『私はハーフエルフですので、寿命の半分も使っておりませんよ』と言ってのけた、あの時の空気」
俺が歩んできたのは、時間そのものではない。
「時間ではなく……出来事で生きている。それが俺にとっての百七十年だ」
(……ふふ。それが『人生』ってことなのかもしれないね。たとえそれが、途方もなく長い道筋だったとしても)
セラの声は穏やかだった。だが、続く言葉に、俺は無意識のうちに喉の奥を強張らせた。
(私ね……最近、少しだけ、遠い感じがするの)
「……遠い?」
俺は焚き火から視線を外し、自らの胸元――彼女が宿る場所に意識を向けた。
(うまく言えないけど。何か……どこか遠い場所から、呼ばれているような感覚。……懐かしくて、とても優しい場所から)
「呼ばれている?」
俺の声には、自分でも驚くほどの鋭さが混じった。
半魔族として、あるいは膨大な魔力を有する者としての直感が、その言葉の裏に潜む「何か」に触れた。それは不吉な予兆というよりは、理そのものが動き出そうとしているような、不可避の気配だ。
(……気のせいかもしれないわね。ごめんね、変なことを言って。私、ちょっと疲れちゃったのかな)
セラは慌てたように話題を変えた。その不自然な明るさが、かえって俺の不安を煽る。
気のせいではない。俺の中の「こころのセラ」は、俺の魔力と魂を糧として存在している。その彼女が「別の場所」からの呼び声を感じているとすれば、それは魂の根幹に関わる事象に他ならない。
だが、今の俺にそれを解き明かす術はなかった。ただ、得体の知れない喪失の予感が、胃の腑を冷たく撫でる。
(ねえ、レイクス。もし……もし私が、いなくなっても――)
「いなくなるな」
彼女の言葉を、俺は力任せに遮った。
感情を殺して生きてきたはずの俺の口から、拒絶の響きを帯びた生々しい声が漏れる。
「そんなことは、あり得ない。お前は俺の中にいる。俺が生きる限り、お前もここにいる。……いいな」
(………………うん)
一拍の、長い溜息のような間。
(そうね。ごめん、レイクス。……私、どこにも行かないわ)
セラはそれ以上、何も言わなかった。
沈黙が再び野営地を支配する。焚き火はいつの間にか小さくなり、周囲の闇がじりじりと距離を詰めてくる。
俺は夜が明けるまで、一度も目を閉じることができなかった。
翌朝。
朝靄が森の木々を白く塗り潰し、冷たい露が足元を濡らす頃。
旅の支度を整えようとした俺の耳に、その「音」が届いた。
――う、うあぁ……っ。
か細く、しかし必死に命を繋ごうとする、幼い泣き声。
風に乗って聞こえてきたのは、遠く南西の、さらに深い茂みの先からだった。
「……セラ」
(ええ……聞こえるわ。子供の声よ!)
俺は迷わず、声のする方角へと地を蹴った。
この泣き声の主との出会いが、俺にとって「生きる」という意味を根底から覆し、そしてセラとの「別れ」への秒読みを始めることになる。
KR233年。春。
運命は、一人の少女の涙と共に、再び動き出した。




