第1話「南への旅路」
第1話「南への旅路」
黒い雷雨暦(KR)232年。
エルディナ聖王国の国境を越え、俺の足跡は大陸南部へと伸びていた。
背後には、百三十年の歳月をかけて築き上げたヴァルトニアの家があり、信頼に足る三柱の部下たちがいる。だが、俺は再び一人で歩いていた。十五歳の少年の姿のまま、二百三十余年の時を呼吸する「半魔族」として。
なぜ、南へ向かうのか。
その問いに対する明確な答えを、俺は持っていない。
「……わからない」
口から漏れた言葉は、乾いた風にさらわれて消えた。
ただ歩いている。それだけだ。
二百三十二年間、常に「目的」に縛られて生きてきた。魔族への復讐、セラの故郷の守護、一族の繁栄。それらすべてが俺の歩みを規定し、俺を突き動かす燃料となってきた。
目的のない旅。それは今の俺にとって、贅沢を通り越して、どこか恐ろしさすら孕んだ空白だった。
(久しぶりに二人だけね、レイクス)
不意に、魂の最奥から柔らかな光が溢れ出した。
こころのセラ。百七十年前、肉体を失った彼女が、俺の心の中に宿ってから今日まで。彼女だけは、俺の歩みのすべてを、その絶望も沈黙も、共有してきた唯一の存在だ。
「……ああ」
短く応じる。
周囲は、エルディナの厳格な石造りの街並みとは対照的な、起伏の緩やかな丘陵地帯へと変わっていた。大陸南部。ここはかつての戦火の影響が比較的軽微で、今も古き良き農村風景が残っている。
(どこへ行くの?)
「……わからないと言ったはずだ」
(ふふ、そうだったわね。でも、それでいいのよ)
「……お前はそれでいいのか。何処へ辿り着くかも、何を得るかもわからない道だぞ」
俺の問いに、セラは少しだけ間を置いた。
その沈黙が、いつもよりほんの僅かに長い。まるで、遠い場所にある何かを確かめるような、不思議な余韻があった。
(あなたがいる場所が、私の場所だから。あなたが歩くなら、そこが私の道になるの。……今までも、これからも)
その言葉の響きは、いつも通りの慈しみに満ちていた。
だが、俺の心に触れる彼女の気配が、ほんの一瞬だけ、薄氷のように透き通った感覚を覚えた。気のせいか。二百三十年生きても、心の機微というものは、いまだに霧の中に隠れたままだ。
街道の先、小さな宿場町が見えてきた。
行き交う旅人たちの顔には、北部の緊迫感とは異なる、のどかだがどこか落ち着かない影が差していた。
道端で荷を解いていた初老の旅商人が、一人で歩く俺を見て声をかけてきた。
「おい、坊主。この先へ行くのか?」
「……ああ」
「悪いことは言わん、南へ下りすぎるのはやめておけ。最近、この界隈じゃ不吉な噂が絶えんのだ」
「噂?」
商人は声を潜め、辺りを気にするように言った。
「**エゴゴブリン**だ。ただのゴブリンならいざ知らず、奴らは執念深さが違う。最近じゃ群れの規模が異常でな、ここから二つほど南の村が、一夜にして消えたっていう話だ。生き残りは……一人もいないらしい」
「……村が消えたか」
ゼフィールの報告にあった通りだ。
奴らは何かを探している。あるいは、何かに導かれている。
エゴゴブリンという、人間の負の感情を糧にする変異体が、これほどまでに活発化している。その中心に何があるのか。
「礼を言う」
商人の制止を背に、俺は再び歩き出した。
(レイクス……。やっぱり、放っておけないのね)
「……様子を見るだけだ。俺は隠居の身だ」
(嘘つき。あなたの目は、もう「守るべきもの」を探しているわよ)
セラの声は、いつものように俺の図星を突く。
俺は何も答えず、ただストームリングがはまった指を微かに握った。
見上げた南の空には、薄暗い、禍々しい雲がゆっくりと渦を巻いていた。
平和に見えるこの農村地帯の裏側で、確実に「何か」が産声を上げようとしている。
その「何か」が、俺の、そしてセラの運命を決定的に変えることになることを。
この時の俺は、まだ知らない。




