第20話「継ぐ者たちへ」
第20話「継ぐ者たちへ」
KR232年。
エルディナ聖王国の空には、今日も変わらず鈍色の雲が渦巻いている。だが、その雲の下に広がる景色は、百数十年前の絶望とは無縁の、確かな生活の匂いに満ちていた。
王都から少し離れた静かな丘。そこに、ヴァルトニア家が守り続けてきた一つの墓標がある。
レイクスは一人、その墓前に立っていた。
「KR65年から……167年が経ったか」
墓石に刻まれた文字は、長い年月の風雨にさらされながらも、ヴァルトニアの魔力によって鮮明に保たれている。レイクスは指先で石の冷たさに触れた。その所作は、十五歳の少年の瑞々しさと、二百歳を超えた老人の深淵を同時に感じさせた。
「お前の故郷は……まだ守れている。マルターレスの連中も、今では立派な当主が後を継いでいる。……安心しろ」
(ねえ……レイクス。次は誰が来るの?)
耳元で、懐かしく、そして決して色褪せることのない声が響く。こころのセラ。彼女の魂は、今もレイクスの内側で光として息づいている。
「……わからない」
レイクスは短く答えた。その視線は南の空、不気味な暗雲が立ち込める方向へと向けられている。
(でも、感じてるんでしょう?)
「……ゼフィールが言っていた。南部でエゴゴブリンが増えていると。あいつらの執念は異常だ。何かに引き寄せられるように、一箇所に集まっている」
レイクスの脳裏に、ゼフィールが影の中から報告した南部村落の惨状が浮かぶ。エゴゴブリン――負の感情に汚染され、歪んだ自我を異能へと変える魔物。彼らが群れを成す時、そこには必ず、彼らの渇望を満たす「何か」が存在する。
「……誰かが、巻き込まれているかもしれない」
(行くの?)
「……様子を見に行く」
(また、誰かを守るために。……そうね、それがレイクスだもの)
セラの声に、微かな苦笑が混じったような気がした。
「……それしかできない。俺には、それしか取り柄がないからな」
(それで十分よ。……いってらっしゃい、レイクス)
レイクスは一度だけ深く頷き、墓前に供えられた花の枯れ殻を風に逃がすと、ゆっくりと踵を返した。
邸の正門には、三人の怪物が主を待っていた。
執事セバス=グレイウィンド。
影の護衛ゼフィール。
そして騎士団長アルトミュラー=ヴァルハイト。
かつては一人で戦場を渡り歩き、一人で闇に溶けていたレイクスにとって、この光景は百三十年の歳月が生んだ最も大きな変革だった。
「準備は整っております、旦那様。南部の情勢はゼフィールが常に影から補足いたします。道中の野宿に不自由せぬよう、馬車には最高級の茶葉と備蓄を積み込みました」
セバスが完璧な礼をもって見送りの言葉を述べる。
「お気をつけて。……必ずお帰りください」
「ああ」
レイクスが歩みを進めると、その影が揺らぎ、ゼフィールの声が鼓膜を叩いた。
「影は追います。旦那様の歩みの先、露払いも、情報の断片も、すべて私の領分。……ご武運を」
そして、門の傍らで腕を組み、仁王立ちする巨漢がいた。「竜壁」の異名を持つアルトミュラーだ。彼は多くを語らず、ただ深紅の瞳で主君の背中を見つめていた。
「……行ってこい」
短く、しかし地響きのような重厚な声。二百三十年を彷徨い、ようやく見つけた「預けるべき主」への、彼なりの精一杯の敬意だった。
レイクスは門を出た。
かつてのように、ただ一人で旅立つ。その形式は変わらない。
しかし、背負っているものが違う。見送る背中がある。
(……帰る場所がある。それが、変わったことか)
かつての孤独な解放者は、今や一つの家の主として、守るべき歴史と人々を背負っていた。
街道を南へ歩む少年の影は、冬の陽光に長く伸びていた。
KR232年。
一三〇年にわたる「継承」の季節が終わり、物語は次なる動乱へと手を伸ばす。
南部の荒野、エゴゴブリンの咆哮が響くその地で、レイクスは何を見つけるのか。
それはまだ、誰にもわからない。
ただ、不老の少年は、いつものように淡々と、その足跡を刻んでいった。
─ KR232年。レイクスは南へ向かった ─
─ 何を見つけるかは、まだ知らない ─
─ ただ……いつものように、歩いていった ─
〔第3章「継ぐ者たち」完〕




