第18話「時の果てに何を見るか」
第18話「時の果てに何を見るか」
黒い雷雨暦(KR)228年。
かつて解放戦線の旗を掲げ、大陸を焦土から救わんと足掻き始めたあの日から、百三十年余の歳月が過ぎ去った。
レイクス=ヴァルトニアは、エルディナ聖王国の王都を一望できる小高い丘に立ち、独り、静かに流れる風を感じていた。
十五歳の少年の姿を維持し続けるその肉体には、本来なら降り積もるはずの加齢という重力は働かない。だが、その赤い瞳が映してきた光景は、確実に重みを増している。
KR100年の頃。大陸にはまだ、先代魔王が遺した戦火の傷跡が生々しく刻まれていた。瓦礫の山はあちこちに残り、人々の顔には明日の食い扶持すら危ぶむような、追い詰められた絶望が張り付いていた。
それが今は、どうだ。
眼下に広がる街並みからは、夜の帳を照らす柔らかな灯火が溢れ、子供たちの笑い声が風に乗って微かに届く。魔族の脅威が完全に消え去ったわけではない。むしろ四大魔将という巨大な影は、より深く、より狡猾に大陸の深層に根を張っている。
しかし、それでも――人々は生きている。絶望を明日への活力に変え、歴史という名の頼りない糸を必死に紡ぎ続けている。
「……静かだな」
レイクスの唇から、独り言が漏れた。
この静寂を守るために、自分はどれほどの時間を使い、どれほどの別れを見送ってきたのか。
(ねえ、レイクス。幸せ?)
不意に、魂の深淵から鈴を転がすような声が響いた。
たった一人の「光」、こころのセラだ。彼女の問いかけは、いつも唐突で、そしてレイクスの核を鋭く突く。
「……わからない」
レイクスは自嘲気味に目を伏せた。
守るべきものは守ってきた。約束も果たし続けている。だが、それが個人の多幸感に直結するかと言われれば、明確な答えは出なかった。
(でも)
セラが言葉を重ねる。促すような、柔らかな気配。
「……悪くはない。この景色を、こうしてお前と眺めていられる時間は」
(ふふ、そう。それがあなたの「幸せ」なのかもしれないね。欲張りじゃない、あなたらしい答えだわ)
「……かもしれないな」
## レイクスは歩き出した。向かう先は、三人の怪物が待つヴァルトニアの邸。
邸の回廊では、セバスが完璧なタイミングで夜の茶を用意していた。
レイクスが席に着くと、老執事は音もなく寄り添い、湯気の立つカップを置く。
「セバス。お前は、この百三十年で……いや、実年齢を合わせれば何百年、俺に仕えている。飽きないか」
「飽きる理由がございません、旦那様」
セバスは迷いなく、慈しむような微笑みを向けた。
「日々、旦那様が紡がれる歴史を最も特等席で拝見できるのです。これ以上の贅を、私は存じ上げませんよ。たとえこの先、千年が過ぎようとも、私の淹れる茶の味は変わりませぬ」
「……強情な執事だ」
レイクスは短く鼻で笑い、一口、その茶を啜った。
庭園の影、月の光さえ届かぬ暗がりに視線を向ければ、そこにはゼフィールの気配があった。姿は見せずとも、主の問いかけを待っているのは明白だった。
「ゼフィール。お前は何を感じている」
「……影は、何も感じません。ただ、ここに在る。旦那様の影が伸びる場所に、私も在る。それだけです」
影の眷属らしい、極限まで個を削ぎ落とした回答。だが、その淡々とした声の裏には、レイクスという存在以外を一切拒絶するような、苛烈なまでの忠義が滲んでいた。
「……そうか。ならば、そのままいろ」
「御意」
最後に、訓練場の隅で巨剣を磨いていたアルトミュラーと対峙した。漆黒の竜鱗鎧を脱ぎ、剥き出しになった太い腕が、夜風にさらされている。
「アルトミュラー。お前は二百三十年生きてきた。傭兵として、大陸を彷徨っていた頃……俺の家に来るまで、何を探していた」
アルトミュラーは手を止め、深紅の瞳でレイクスを見据えた。
「……主を。己の誇りを預け、背中を任せ、ただその一撃を、その守護を捧げるに値する、唯一の器を」
「……見つかったか」
レイクスは、相手が自分と同じく、あるいは自分以上に長い時間を孤独に歩んできた者だからこその問いを投げた。アルトミュラーは短い沈黙の後、一度だけ深く、力強く頷いた。
「……ああ」
満足そうな竜騎士の表情に、レイクスはそれ以上の言葉を重ねる必要を感じなかった。
三つの柱。百三十年を経て完成した、ヴァルトニアの守護。
夜も深まり、レイクスは再び一人、寝室のバルコニーから夜空を見上げていた。
空の向こうでは、不気味な黒い雷雲が、次なる嵐を予感させるように渦巻いている。
百三十年の歳月を費やし、次代へと志を繋いできた「継ぐ者たち」の物語が、今、静かに凪の時間を終えようとしていた。
「次は……何が来る」
宿命。謀略。あるいは、新たな破滅か。
問いかけた主に対し、心の中の光が、いたずらっぽく笑ったような気がした。
(誰かが来るわよ、きっと。あなたがまだ出会ったことのない、大切な誰かが)
「……誰だ」
(笑って。それは楽しみにしてて。もうすぐ、運命の風が新しい種を運んでくるから)
レイクスは、セラが何を暗示しているのかを問いただそうとはしなかった。ただ、彼女が笑っているのなら、それはきっと必要な出会いなのだろうと、不思議な納得感があった。
KR230年。
ヴァルトニア家の盤石なる「三柱」が揃い、継承の儀を終えた物語は、ここに静かな終わりを迎える。
だが、安息は長くは続かない。運命の歯車は、失われた神の遺産と一人の少女を巡る新たな動乱へと、重々しい音を立てて回り始めた。




