第16話「シャーラの接触」
第16話「シャーラの接触」
KR220年代。北翼将リルの消滅は、大陸の勢力図に物理的な空白をもたらしたが、それ以上に深刻なのは、その後に訪れた「不気味な静寂」だった。
魔族による目立った軍事侵攻は鳴りを潜め、代わりに各国の宮廷では、出所不明の噂と、正体不明の外交官たちが暗躍を始めていた。
ある日の午後、ヴァルトニア邸。
邸を包む空気の僅かな揺らぎを察知し、ゼフィールが執務室の影から現れた。その表情には、珍しく戸惑いの色が混じっている。
「……旦那様。妙な来客が。隣国の特使と名乗る女性ですが……私の『影』ですら、その正体が掴めません。気配が、霧のように拡散しています」
レイクスは手にしていた古文書を閉じ、赤い瞳を入り口へ向けた。
「通せ」
「……旦那様、本当によろしいのですか。正体不明の者を邸内へ招き入れるのは、あまりに危険かと」
セバスが紅茶を注ぐ手を止め、懸念を示す。レイクスは短く答えた。
「……来るなら、話を聞く。向こうから姿を見せたのだ。隠れている者を追うより効率がいい」
通されたのは、非の打ち所のない美貌を持つ、気品溢れる女性だった。
燃えるような紅いドレスを纏い、所作の一つひとつが熟練の貴族を彷彿とさせる。だが、レイクスがその瞳を見据えた瞬間、背後に控えていたセバスが微かに杖剣を握り込み、ゼフィールが影のなかで殺気を研ぎ澄ませた。
「ヴァルトニア伯爵。突然の訪問にもかかわらず、ご対応に感謝いたします。……ああ、そんなに怖い顔をしないで。私はただ、ご挨拶に参っただけです」
彼女は唇を三日月のように歪めた。
「……わかっているとは思いますが」
「ああ。シャーラ=ルシフェイン。紅の外交卿。……四大魔将が、自ら首を差し出しに来たのか」
シャーラは、弾けるような笑い声を上げた。
「さすがですね、伯爵。私の擬態をこうもあっさり見破るなんて。ええ、そうです。私が魔族の『外交卿』シャーラです。……お会いできて光栄だわ、レイクス」
彼女は、まるで長年の友人と再会したかのように親しげな態度で、用意された椅子に腰掛けた。
「さて、単刀直入に申し上げましょう。伯爵、私と手を組みませんか?」
部屋の温度が氷点下まで下がった。しかし、シャーラは冷徹な現実主義者の瞳で、レイクスの反応を窺っている。
「魔王は……そろそろ限界です。あの力は強大すぎ、そして古すぎる。私は次の時代を考えています。……あなたは大陸を守りたい。私は魔王から独立し、自由な『国』を持ちたい。利害は一致しているはずです」
レイクスは、長い、長い沈黙に浸った。
シャーラの提案は、魔族との共存という、およそ信じがたいものだった。だが、彼女の放つ言葉には、魔王に対する絶対的な忠誠心など微塵も感じられない。
「……断る」
短く、しかし拒絶の色は明確だった。
「理由を聞かせてもらえますか? 悪い話ではないはずですが」
「お前が本当のことを言っているかどうか、わからない。……お前は真実に嘘を混ぜるのではなく、嘘を真実として語る。そういう相手と組むことはしない」
シャーラは一瞬、意外そうに目を見開いたが、すぐに満足げな溜息を漏らした。
「……なるほど。誠実な方だ。言葉ではなく、存在そのものを疑われるとは。……ふふ。でも、覚えておいてください。私は魔王のために動いているわけではない。……ただ、自分のために世界を面白くしたいだけなの」
彼女は立ち上がり、優雅に一礼した。
(シャーラ……嘘をついていたのかしら?)
胸の奥で、セラの懸念する声が響く。
「……わからない。だが、あの女の言った『魔王の限界』と『独立』という言葉……。半分は本当かもしれない。だからこそ、余計に危ない」
シャーラは玄関先で足を止め、振り返った。
「また来ます。次は、もう少しお互いを信じられる状況になっているかもしれませんよ。……では、ご機嫌よう」
紅いドレスが陽光に溶けるように消えると、ゼフィールが背後に現れた。
「……追いますか。今ならまだ、影で捉えられます」
「いい。今は……動かない。あの女を追えば、シャーラの描いた『迷路』に引きずり込まれるだけだ」
KR220年代。武力だけでは解決できない、知略と野心の嵐が、ヴァルトニア家を包み込もうとしていた。




