第9話「シャーラの工作」
第9話「シャーラの工作」
KR210年。大陸の平和は、薄氷の上に築かれた砂上の楼閣に過ぎなかった。
かつて四代アドリアンが心血を注いで構築した諸国間の信頼関係。それが今、目に見えぬ腐食によって崩壊しようとしていた。
エルディナ聖王国の王宮、その地下深くにある秘匿会議室。
ゼフィールが持ち帰った報告書は、レイクスの表情をいつになく険しくさせた。
「……アドリアンが残したエルディナとレクシアの和解交渉。その決裂の裏には、やはり『彼ら』がいたか」
ゼフィールが影のなかから声を潜めて応じる。
「はい。交渉の最終段階でレクシア側の全権大使が急死、あるいは失踪した事件が多発しております。その一部に、紅の外交卿――シャーラの工作を確認いたしました。彼女は時に美貌の王妃、時に怜悧な宰相に擬態し、各国の要人の耳に疑心の毒を流し込んでいます」
アドリアンの積み上げた外交的成果が、パズルを崩すように一つずつ無に帰していく。それは直接的な破壊よりも悪質で、修復の困難な「心の侵略」であった。
ゼフィールは、ある地方都市での調査結果を報告し続けた。
「……一箇所、シャーラの『別の顔』を暴くことに成功しました。隣国の将軍の愛妾になりすましていた配下を始末しましたが……本体は未だ霧の向こうです。相手は我々と同じ、姿を変え、欺くことの専門家。決定的な尻尾を掴ませません」
セバスが静かに紅茶を差し出しながら口を添える。
「単なる魔族の侵攻であれば、ヴァルトニア騎士団が盾となりましょう。しかし、政治の表舞台で『正しい手続き』を踏んで行われる工作に、武力を用いるわけには参りません」
レイクスは窓の外、夕暮れに染まるエルディナの街並みを見つめた。
シャーラの工作は巧妙だ。彼女はエルディナ聖王国、特にヴァルトニア領には直接的な手出しを控えている。
「シャーラは賢いな。俺という『異物』を直接刺激すれば、武力による強引な介入を招くと知っている。今はまだ、周囲を固め、俺たちを孤立させることに専念しているようだ」
「……いかがなさいますか」
「今は動かない。エルディナという根幹が揺らがない限り、政治の遊戯に付き合う必要はない。だが……」
レイクスの瞳に、紅い炎が宿る。
「いずれ、この平和の維持そのものがシャーラの野心の邪魔になる日が来る。その牙がエルディナに向けられた瞬間……俺が直々に仕留める」
(シャーラって……本当に怖い存在ね。リースバルトみたいに真っ直ぐな人にとっては、一番苦手なタイプだわ)
胸の奥で、セラの懸念するような声が響く。
「ああ。力で倒す相手ではない。言葉と影、そして疑心。それらすべてを斬り捨てねば、本体には届かないだろう」
(あら。あなたらしくない、慎重な言葉ね)
「……黙っていろ」
レイクスは心の中でセラを制したが、その内心には拭いきれない危惧があった。シャーラは他の魔将とは違う。彼女は魔王への忠誠ではなく、自らの欲望のためにこの世界を弄ぼうとしている。その野心が、いずれ魔王すらも利用し、想像を絶する破滅を招くのではないか。
その夜、大陸の北端。吹雪に隠された断崖の古城。
ゼフィールの放った「目」が、遠くからその一角を捉えていた。
豪華な燭台に火が灯るサロンで、優雅にワインを傾けるリルの姿。そして、その対面。鏡のなかに映る姿が刻一刻と変化し、男女の区別さえ定かではない「輪郭」が、リルの問いかけに応じる。
『リル、準備は良いかしら? 人間たちの結びつきは、すでに蜘蛛の巣よりも脆いわ。……次の一手で、あの「一騎当千」を大陸の敵に仕立て上げましょう』
リルが愉しげに唇を歪める。
「いいわね。レイクスが守ろうとした世界が、彼自身を拒絶し始める……。その時、彼はどんな顔をするのかしら」
ゼフィールの放った「影」は、その不気味な密談の残響を拾い、闇へと消えていった。
─ 謀略の糸は、ヴァルトニアという大樹を絞め殺そうと、静かに巻き付いていく。
─ そしてついに、この停滞した闇を切り裂く、新たな「咆哮」が近づいていた。




