第8話「北翼将リル、再び動く」
第8話「北翼将リル、再び動く」
KR210年。大陸が「一騎当千」の安寧に酔いしれていた頃。
北の凍土、常に吹雪が視界を遮る辺境の廃城にて、百余年の沈黙を経て「悪意」が目を覚ましていた。
薄暗い玉座の間。氷の結晶が壁を覆うその場所で、一人の女が退屈そうに指先で幻影を弄んでいた。
北翼将リル=ナーレス。
かつてラバリーア大陸を揺るがした解放戦線の時代、レイクスの前に立ち塞がり、そして霧のように姿を消した幻術使い。百年の歳月は、魔族である彼女の容貌に何の影響も与えていない。しかし、その瞳の奥に揺らめく光は、かつての「愉悦」とは異なる色を帯びていた。
「……遅いわね、シャーラ。待ちくたびれたわ」
影が伸び、そこから一人の女――四大魔将の一角、シャーラが姿を現した。
「ふふ、ごめんなさい。人間の王族たちを踊らせるのに、少々手間取ってしまって」
シャーラは艶然と微笑み、リルの隣に腰を下ろした。
「準備は整ったわ。あなたが売った『ヴァルトニアの情報』に、欲深い人間たちが飛びついている。あの一騎当千の騎士団が、自分たちの権威を脅かす毒であると、彼らは信じ込み始めているわ」
リルは興味なさげに視線を外の吹雪へ向けた。
「政治の話はどうでもいいわ。……私はただ、確かめたいだけ。あの少年が、この百年でどれほど『重く』なったのかを」
数日後。エルディナ聖王国、ヴァルトニア邸の地下。
ゼフィールが音もなくレイクスの背後に跪いた。
「……旦那様。不穏な風が吹いております。百余年、その足跡を完全に絶っていた北翼将リル……。彼女の生存と、その暗躍を確認いたしました」
レイクスは書物から目を上げず、沈黙を返す。だが、周囲の空気が僅かに帯電したのをゼフィールは見逃さなかった。
「……しかも今回は単独ではありません。四大魔将シャーラと結託し、各国の要人に我が家の内情を売り歩いています。狙いは、大陸全土を巻き込んだ『ヴァルトニア包囲網』の構築かと思われます」
「……シャーラと組んだか。あの幻術使いが、他人の策に乗るとはな」
レイクスは立ち上がり、バルコニーへと出た。その時、目の前の景色が、陽光溢れる初夏から、凍りつくような冬の森へと変貌した。
「――久しぶりね、レイクス。……相変わらず、可愛らしい少年のままなのね」
虚空から降るように、リルの声が響く。
それはかつて戦った際と同じ、強力な広域幻術。レイクスは眉一つ動かさず、赤い瞳を空虚な空間へと向けた。
「……リルか」
「ええ。覚えていてくれて光栄だわ。……でも、少しガッカリしたかしら? 私は少し、変わったのよ」
空気が歪み、リルの姿が数メートル先に結実する。
かつての彼女は、戦いそのものを「最高に面白い見世物」として楽しんでいた。だが、今、目の前に立つ彼女から放たれる魔力は、鋭利な刃のように研ぎ澄まされ、殺意よりも深い「渇望」に満ちていた。
「昔の私は、あなたが壊れるところを見たかった。でも、この百年、暗闇のなかであなたの影を追い続けて気づいたの。……私は、あなたと戦いたい。本気で。どちらかが消えるまでね」
(リル……。何、この圧迫感。昔とは違う。何を考えているの?)
胸の奥で、セラの警告するような声が響く。
「……わからない。だが、今回は『遊び』ではないことだけは確かだ」
レイクスが指輪に手をかけた瞬間、幻像が霧散し、景色は元の初夏へと戻った。そこにはもう、誰の気配も残っていない。
「……旦那様」
ゼフィールが再び実体化し、険しい表情で報告を続ける。
「リルの挑発に合わせるように、シャーラの動きも活発化しています。アルカディア周辺でも、マルターレス家の防衛線を揺さぶる工作が始まっているようです」
レイクスは遠く、北の空を見据えた。
百年前、生き残った因縁。それが今、大陸全土を揺るがす巨大な謀略となって牙を剥こうとしている。
「……戦いたいなら、来ればいい。だが、俺の家を汚すなら、次は霧に逃げる暇など与えない」
KR210年。一騎当千の武名が大陸を覆う陰のなかで、静かに、しかし確実に、避けられぬ宿命の歯車が回り始めていた。




