第1話「墓前の誓いと、変わる心」
第1話「墓前の誓いと、変わる心」
黒い雷雨暦(KR)100年。大陸を吹き抜ける風には、一つの時代の終わりを告げるような静謐さが混じっていた。アルカディアの地で一人の英雄がその生涯を閉じた時、世界は何も変わらずに廻っていたが、不老の歩みを続けるレイクス=ヴァルトニアにとって、その一日は、これまでの数十年とは決定的に異なる重みを持って刻まれていた。
アルカディアからエルディナへと向かう帰路、馬車に揺られるレイクスは、窓の外を流れる景色をただ静かに眺めていた。かつて荒廃していた街道は整い、人々が往来している。その平和の礎を築いた男は、もうこの世にはいない。
「……五十年前か」
呟きが、密閉された車内に落ちる。KR50年、アルカディア郊外の小さな集落で出会った時のリースバルトは、まだ若く、無鉄砲で、しかし誰よりも真っ直ぐな瞳をしていた。その彼が、半世紀の時を駆け抜け、老い、そして逝った。レイクスの外見は出会ったあの頃のまま、十五歳前後の少年から一歩も動いていない。自分の一秒と、人間の数年。その絶望的なまでの速度差を、レイクスは初めて「切なさ」という、形容しがたい痛みと共に噛みしめていた。
エルディナ聖王国に帰還したレイクスが最初に向かったのは、邸ではなく、聖泉のほとりにあるセラの墓所だった。夕闇が迫る中、純白の石に刻まれた「セラ」の名。レイクスはその前に立ち、静かに手を合わせた。風がセラの髪を揺らすように、周囲の花々を優しく撫でていく。
(レイクス……。リース、逝ってしまったわね)
胸の奥で、セラの鈴を転がすような声が響く。
「……ああ」
(悲しい?)
直球な問いに、レイクスはしばし沈黙した。
「……当然だ。出会ってから五十年。共に戦火を潜り抜けてきた……戦友だ」
(泣けた?)
「……俺は泣かない。それはお前も知っているはずだ」
(ええ、知ってる。でも、泣かなくても、あなたの心の中に大きな穴が空いているのはわかるわ。ちゃんと悲しんでいるから……それでいいのよ)
レイクスは墓石の縁に指を這わせた。五十年以上前、セラを失った後の自分には、帰る場所も、自分を「レイクス」と呼ぶ者もいなかった。ただ復讐という名の荒野を彷徨う怪物になりかけていた自分を、あの男――リースバルトだけは無理やり人間の世界へ繋ぎ止めたのだ。
「奴は……俺に『家族のようなもの』を教えてくれた。五十年前、俺はどこにも帰る場所がなかった。だが今は……ある。ここと、アルカディアと。奴が残した孫たちの場所だ」
かつてのレイクスにとって、大切な者の死は「守れなかった」という悔恨でしかなかった。だが今は違う。リースバルトという男を、天寿を全うするまで守り抜いた。その命の火が消えたのは喪失ではなく、彼が成した「功」と「義」が自分に託されたのだという、確かな実感が芽生えていた。
(レイクス、変わったわね。少しだけど……確かに。今のあなたは、前よりもずっと『人間らしい』もの)
ヴァルトニア邸に帰還した翌日、レイクスは女帝セレーナからの呼び出しを受けた。謁見の間ではなく、女帝の私室に近い後宮の庭園。そこは、立場を捨てたセレーナが時折、レイクスだけに素顔を見せる場所だった。
「……お帰りなさい、伯爵。お疲れのところを呼び立てて悪かったわね。あなたの友人が逝ったと聞きました。心からお悔やみを申し上げます」
「……友人、か。そう呼んでいいのか、わからなかったがな」
「あなたが三十五年間、職務の合間を縫ってまで定期的に訪れていた相手です。友人でなければ、何と呼ぶのですか」
セレーナの問いに、レイクスは長い沈黙を置いた。
「……そうだな。……友人だった。奴こそが、俺の生涯唯一の友人だ」
その言葉を口にした時、レイクスの心にストンと腑に落ちるものがあった。セレーナは茶碗を置き、真っ直ぐにレイクスの瞳を見つめた。
「レイクス。一つ、聞いていいかしら。あなたはこの先も……いいえ、この数十年後も、数百年後も。……ここにいてくれますか?」
「……。ここを離れる理由がない。エルディナは、俺が伯爵の称号を授かった地だ」
「理由ではなく……意志を聞いています。あなたがここに居続けたいという、あなた自身の意志を」
レイクスは再び沈黙した。不老の者にとって、一つの場所に留まり続けることは、常に「異物」として排除されるリスクを伴う。だが、この女帝はどうだ。自分の正体に薄々気づきながらも、決して土足で踏み込まず、適切な距離感を保ち続けてきた。
「……いる。……ここに、居続ける」
絞り出すようなレイクスの答えを聞き、セレーナは花が綻ぶような微笑を浮かべた。
「そう。……嬉しいわ。あなたがいてくれるなら、この国はきっと、私が死んだ後も大丈夫ね」
セレーナという女性は、余計な追及をしない。それが今のレイクスには、何よりも心地よかった。彼女への信頼が、また一段と深まっていくのを、レイクスは静かに受け入れていた。
(セレーナって、あなたのこと本当によく理解してるわね。まるで、私が見ているあなたを半分くらい覗いてるみたい)
(……。……かもしれないな)
翌朝、レイクスは再びセラの墓前に立っていた。アルカディアに残された二人の孫――リースとエレオノーラの顔が浮かぶ。
「リースバルトよ……。お前が命懸けで作ったあの家を、俺が守ろう。お前の子らを、俺が見守る。剣を継ぐあいつと、お前の心を継ぐあの子。……どちらも、俺が最後まで見届けよう。お前が俺を見ていたように」
(リース、聞こえてるかな。きっと天国で『重てぇよ!』なんて笑ってるわよ)
(……聞こえていなくていい。……俺が覚えていれば、それで十分だ)
(ふふ、そうね。それがレイクスの『義』だものね)
墓所を後にし、レイクスはヴァルトニア邸の玄関へと戻った。扉を開けると、そこにはいつもと変わらぬ、背筋を伸ばしたセバスが立っていた。レイクスは足を止め、数秒の間をおいた。これまでの自分なら、ただ無言で通り過ぎるか、短く頷くだけだっただろう。しかし、今の自分には、返すべき言葉がある。
「……ただいま、セバス」
その一言が、邸の静かな廊下に響いた。セバスは一瞬だけ驚きに目を見開き、そしてすぐに、深い敬愛を込めた微笑をその皺の刻まれた顔に浮かべた。
「……左様でございますか。かしこまりました。旦那様がお好きな、少し濃いめの紅茶を淹れさせましょう。夕食の準備も、すぐに」
「ああ。……頼む」
レイクスは燕尾服の裾を翻し、自室へと歩み出す。不老の旅路はまだ続く。だが、その足取りは、もはや放浪者のそれではなく、この地に根を張った一人の「家主」としての力強さを帯びていた。友の死は終わりではない。それは、新しい絆が、そして新たな「守護」が始まる合図であった。




