第20話「英雄の最期、誓いは続く」
第20話「英雄の最期、誓いは続く」
黒い雷雨暦(KR)100年。
大陸を吹き抜ける風には、一つの時代の終わりを告げるような静謐さが混じっていた。
アルカディア領、マルターレス伯爵邸。かつて解放戦線の勇士としてその名を轟かせたリースバルト=マルターレスは、今、人生という長い戦場の終着点に立っていた。窓の外には、彼が愛し、守り抜いた領地の豊かな緑が広がっている。しかし、寝台に横たわる六十八歳の老戦士の瞳に、その景色を映す力はもうほとんど残されていなかった。
「……父上。レイクス殿が、到着されました」
傍らで控えていた現当主、ラウルが震える声で告げる。三十八歳となり、一国の重鎮としての風格を備えた彼でさえ、英雄の灯火が消えようとするこの瞬間には、一人の息子としての顔を隠しきれなかった。
部屋の扉が静かに開く。
歩み寄るのは、三十年前からその姿を一切変えていない、銀髪の少年。ヴァルトニア伯爵、レイクス。彼は無言のまま、リースバルトの枕元にある椅子に腰を下ろした。
「……よお、レイクス。……待たせちまったな」
リースバルトの掠れた声が、沈黙の部屋に響く。レイクスは何も答えない。ただ、その衰え果てた友の右手を、自らの若々しい――それでいて、何世紀もの時を背負った重みのある手で、静かに握りしめた。
「……ああ。待っていた」
短く、しかし万感を込めたレイクスの言葉に、リースバルトは満足そうに口端を震わせた。
「……俺は……幸せだったよ。アルカディアの、あの小さな集落でお前と出会えて……。……戦場を駆け、国を興し……。最高に、面白い人生だった」
リースバルトの脳裏には、数十年前、絶望の淵にあった名もなき集落で、圧倒的な力と共に現れた「少年」の姿が鮮明に浮かんでいた。あの出会いが、一人の兵士に過ぎなかった彼を英雄へと変えたのだ。
リースバルトの視線が、寝台の端で必死に涙を堪えている孫たちに向けられた。十三歳になり、少年の幼さを脱ぎ捨てつつあるリースと、十二歳になり、どこか亡きマリエッタの面影を宿し始めたエレオノーラ。
「……レイクス。……最後の、我儘だ」
「言え。お前の頼みだ。何でも聞く」
「……孫リースに、剣を……本当の、義の剣を教えてやってくれ。……そしてエレオノーラには……」
老英雄の息が一度、大きく乱れる。レイクスは何も言わず、その手に微かな魔力を通し、言葉を繋ぐための活力を与えた。
「……エレオノーラには、人を信じる心を……守ってやってくれ。……この先、どんなに、時代が汚れようとも……」
「……わかった。約束する。あいつらの行く末を、俺が最後まで見届けよう」
レイクスの言葉は、冷徹なまでの確信を持って響いた。不老の存在が与える「約束」の重さを、リースバルトは誰よりも理解していた。
「……そうか。なら……もう、心配ねえな。……あばよ、相棒。……先に行ってるぜ……」
リースバルトの指先から、力が抜ける。
開かれたままの瞳から、光が静かに失われていった。
部屋を支配したのは、重く、深い沈黙。やがて、我慢しきれなくなったリースの嗚咽が漏れ、エレオノーラがその場に泣き崩れた。ラウルもまた、父の胸に顔を埋め、声を押し殺して肩を震わせる。レイクスは一人、立ち上がった。友の瞳を優しく閉じさせると、一度だけ深く、その死に拝礼し、部屋を後にした。
伯爵邸のバルコニーに出ると、夜の冷気が火照った肌を撫でた。見上げる空には、黒い雷雨の時代を象徴する重い雲の隙間から、わずかな星影が見えている。
(リース……。いい人生だったね。本当に、かっこいいお爺ちゃんだったわ)
心の内側で、セラの鈴を転がすような声が響く。悲しみを湛えながらも、彼女の声はどこまでも温かかった。
(……ああ)
(泣いていいのよ、レイクス。ここは私しかいないんだから)
(……俺は泣かない。……戦士を見送るのに、涙は不要だ)
(ふふ、知ってるわ。あなたはそういう人だものね。でも、あなたのその『義』の重さが、私は一番好きなのよ)
レイクスは手すりを強く握りしめた。六十五年前、自分を呪った世界。その中で、あの日あの集落で、この男だけは自分を「怪物」ではなく「相棒」と呼んだ。その重みは、不老の時を生きる自分にとって、いかなる宝石よりも価値のあるものだった。
不意に、燕尾服の裾を引かれる感覚があった。振り返ると、そこには目を赤く腫らしたエレオノーラが立っていた。
「……おじちゃん」
震える声。彼女は、目の前の少年が「祖父の友人」でありながら、誰よりも長く、そして孤独な時を生きる存在であることを、直感的に理解しているようだった。
「……おじちゃん、また来てくれる? お父様も、お兄様も……みんな、寂しがるから」
レイクスは屈み込み、少女の頬に伝わる涙を、その指で静かに拭った。
「……ああ。約束した。……また来る」
その短い返答に、エレオノーラは力強く頷いた。
レイクスは再び立ち上がり、夜の闇に沈むアルカディアの領地を見据える。一人の英雄が逝き、一つの火が消えた。だが、その火種は、少年の背中に、少女の心に、そして不老の伯爵の記憶の中に、確かに引き継がれた。
─ KR100年。リースバルト=マルターレスは逝った。
しかし、その誓いは剣と共に継がれていく。
そして不老の伯爵だけが──時の流れを見届け続ける。
〔第2章「連鎖する戦火」完〕
〔第3章「継ぐ者たち」へ続く〕




