第15話「リースバルトの晩年」
第15話「リースバルトの晩年」
KR95年。アルカディア領を吹き抜ける秋風は、どこか寂しげな余韻を孕んでいた。
三度目となるマルターレス伯爵邸への訪問。馬車を降りたレイクスの前に現れたのは、五年前の快活な笑みを失い、杖を突いてようやく立つ老人の姿だった。
リースバルト=マルターレス、六十三歳。
解放戦線の荒波を駆け抜け、無理を重ねてきた肉体は、時代の終わりを告げるかのように衰えを見せていた。
「よお、レイクス……。待たせて済まんな。この通り、足腰が言うことを聞かなくなってきてな」
「……座れ。無理に立つ必要はないと言ったはずだ」
レイクスの言葉は相変わらず淡白だが、その赤い瞳は友の深く刻まれた皺を、弱くなった脈動を、冷静に、そして冷徹なまでの正確さで捉えていた。
「レイクス様! 待ってました!」
沈んだ空気を打ち破るように駆け寄ってきたのは、八歳になった孫のリースだ。その手には、手入れの行き届いた木剣が握られている。
「僕、もっと強くなりたいんです! おじいちゃんから聞いた、解放戦線の英雄みたいに……。レイクス様、僕を強くしてください!」
真っ直ぐな瞳。かつて十八歳でレイクスを追いかけてきた、あの日のリースバルトに重なる眼差し。レイクスは無言で、少年の持つ木剣を受け取った。
「一撃だけだ。……来い」
「はいっ!」
少年が鋭い踏み込みと共に木剣を振り下ろす。レイクスは一歩も動かず、ただ受け取った木剣の先で、少年の剣筋を優しく、それでいて岩のように重く受け流した。
「……基礎はできている。あとは、守るべきもののために振るえ。自分のためだけの剣は、いつか折れる」
「……はい!」
少年が目を輝かせて頷く一方で、その背後からひらひらと少女が駆け寄ってくる。七歳になったエレオノーラだ。
「こわいかおのおじちゃん、また来てくれた!」
「……怖くはない」
「こわいよ! 眉間にずっと皺寄ってるもん。……でも、エレはおじちゃんのこと好き!」
無邪気にレイクスの燕尾服の裾を掴む少女。九十年前、ただ一人を救えなかった罪悪感と共に歩き始めたレイクスにとって、この屈託のない好意は、いかなる強力な魔術よりもその心に深く染み渡る。
日が傾き、邸の縁側でレイクスとリースバルトは二人きりになった。
「レイクス……。一つ、頼みがある。……いや、これは我儘だな」
リースバルトの掠れた声が、夕闇に溶けていく。
「言え。今更お前の我儘を断るつもりはない」
「……孫のリースと、エレオノーラを、頼む。俺が逝った後も……いつか、この子たちが壁にぶつかった時、道を示してやってくれ。俺の代わりに、お前のその変わらぬ目で、見守ってやってほしいんだ」
それは、一人の友として、そして不老の守護者へ向けた、あまりに重く、切実な遺言であった。
「……わかった。あいつらが自分の足で立てるようになるまで、俺が目を離すことはない」
「……そうか。なら、俺の人生に心残りはないな。はは、お前に頼めば間違いねえ」
リースバルトが満足そうに目を細める。その手は、かつての鋼のような強さを失い、枯れ木のようだった。
(リース……。あんなに元気だった子が、こんなに小さくなっちゃって……)
胸の奥で、セラの悲しげな声が響く。
(……まだ逝かせん。俺の魔力で延命することなど容易い)
(だめよ、レイクス。それはあの子が望む『生』じゃないわ。人間は、終わりがあるからこそ、次へ命を託せるの。……わかっているんでしょ?)
(……わかっている)
レイクスは拳を握りしめた。六十五年の放浪、そしてここまでの三十年余り。幾度となく繰り返してきた「見送る」という行為。だが、この男だけは――共に戦場を駆け、同じ風を見たこの友だけは、特別な存在だった。
出発の刻。
馬車に乗り込み、振り返るレイクスの視線の先には、縁側に座り、ゆっくりと手を振るリースバルトの姿があった。
その隣で、小さな孫たちも元気に手を振っている。
レイクスはそれに応えるように、短く、一度だけ頷いた。
「……セバス、戻るぞ。エルディナへ」
「かしこまりました、レイクス様。……良いお顔でございましたよ、リースバルト様も」
馬車が動き出す。
友の温かな光景を背に、レイクスは再び、自らの戦場へと帰っていく。
そこにはまだ、掃き清めなければならない不浄が残っているからだ。




