第14話「西翼将セリュの精神攻撃」
第14話「西翼将セリュの精神攻撃」
KR90年代前半。エルディナ聖王国の北境は、底知れぬ「甘い毒」に侵されようとしていた。
国境を警備する兵士たちが、何ら外傷がないにもかかわらず、突如として武器を投げ出し、あるいは絶望を叫んで自らに刃を向けるという異常事態。報告を受けたエルディナ王宮が混乱に陥る中、ヴァルトニア邸の主――レイクスは、ゼフィールの報告を受け、静かに席を立った。
「……主、北方の砦はすでに沈黙。生存した兵士たちも正気を失い、『女王の抱擁』を求めて彷徨っております。これは魔術による精神汚染かと」
「……西翼、セリュ=メルナか」
レイクスの赤い瞳に、冷徹な火が灯る。ザグラム亡き後、独自の野心を持って動く四翼将。その中でも最も陰湿で、軍隊そのものを無効化する力を備えた「呪詛女王」が、ついにレイクスの「庭」へと踏み込んできたのだ。
「行くぞ。俺の守護の下で、勝手な真似はさせん」
北方の砦に辿り着いたレイクスを待っていたのは、紫紺の霧が立ち込める死の静寂だった。
瓦礫の上に腰掛け、優雅に髪をかき上げる一人の美女。紫紺の長髪をなびかせ、背には漆黒の翼。そして何より、その眼裏には怪しく明滅する呪術の紋様が浮かんでいた。
「あら……。こんな幼い少年が、私の毒に抗ってここまで来るなんて。あのアホなバルガやドラマを退けたという、例の『伯爵』かしら?」
セリュ=メルナの声は、それ自体が神経を逆撫でするような甘美な響きを伴っていた。
「……セリュ=メルナ。ここから去れ。二度は言わん」
「うふふ、冷たいのね。でも、心まで鋼鉄かしら? 人間の脆弱な魂なんて、ほんの少し過去の傷を突けば、容易く崩れるものなのよ」
セリュが黒い翼を羽ばたかせると、紫紺の霧が急速に密度を増し、レイクスの視界を塗りつぶした。
――次の瞬間、レイクスは「過去」の中にいた。
焦げ付いた肉の臭い。群衆の罵声。
火刑台の上で炎に巻かれ、自分を真っ直ぐに見つめるセラの姿。
そして、それよりもさらに古い記憶。石を投げつけられ、魔族の子と罵られ、冷たい地面に伏した母の死。
(……ああ、そうか。俺はまた、守れなかったのか)
九十年以上の歳月を経て、鉄のごとく固めたはずの心が、呪詛女王の幻覚によって強引に抉じ開けられる。意識が暗い泥の底へと沈んでいく。
(……レイクス。……レイクス、こっちよ。私の声を聞いて)
絶望の底で、その声が響いた。
(……セラ)
(だめよ、そっちに行っちゃ。過去は過去。辛いことも、悲しいことも、全部私たちが歩いてきた道。でも、あなたは『今』ここにいるの。私の墓を守り、エルディナを愛すると決めた場所に)
胸の奥に灯った光が、紫紺の闇を内側から焼き払う。レイクスの視界を支配していたセラの火刑台が霧散し、現実の戦場が戻ってきた。
(……助かった、セラ)
(お礼は後でいいわ。あの子、あなたの心を弄んだ報いを受けさせなきゃ)
レイクスは現実の光景を捉え直した。目の前では、セリュが「仕留めた」と確信したように残酷な笑みを浮かべていた。
「……一瞬だったわね。さあ、絶望の中で死に――え?」
セリュの言葉が止まる。
レイクスの左手の指、そこに嵌められた『雷光の指輪』が、静かな、しかし確かな殺意を帯びて白銀の放電を始めていたからだ。
「……俺の過去を、安っぽい見せ物に使うな」
「なぜ……私の『深淵への招待』から抜け出せたの!? あの闇は、死ぬまで解けないはずよ!」
「『ライトニング・ボルト』」
レイクスは答える代わりに、指輪から凝縮された雷撃を放った。
派手な大規模魔法ではない。ただ、セリュの急所を的確に、音速で貫く一筋の光。
セリュは咄嗟に黒い翼を盾にして防いだが、電撃はその美貌を掠め、砦の壁を粉砕した。
(黒雷を引き出せば一撃だ。しかし、今はその時ではない)
力の一部を解放すれば、この砦ごとセリュを消し去ることは容易い。だが、ここで半魔族としての本質を曝け出すことは、エルディナの民に余計な恐怖を植え付けることになる。レイクスはあくまで「魔法の指輪を操る魔導師」としての体裁を保ち、淡々と指輪の出力を上げた。
「くっ、生意気な……! 私の呪いが効かないなんて、どんな精神構造をしているのよ!」
セリュが苛立ちを露わにし、さらに強力な呪術を紡ごうとした時。
「……あの声は何? 貴様の背後から……いいえ、内側から聞こえる、あの忌々しい光の声は……っ!」
彼女の特質である精神感応が、レイクスの魂に寄り添う「こころのセラ」の波動を感知した。それは呪詛女王にとって、己の存在を根底から否定するような純粋な聖なる輝き。
「……邪魔をするというのね。いいわ、今日のところは。でも、次はもっと深い絶望を用意してあげる!」
セリュは動揺を隠すように漆黒の翼を広げ、紫紺の霧と共に空へと逃れた。
レイクスは追わなかった。
彼女の呪術が解け、正気を取り戻した兵士たちがうめき声を上げるのを確認すると、彼は静かに指輪を下ろした。
「……主、追撃いたしますか?」
影から現れたゼフィールが問う。
「……不要だ。奴は前衛戦闘には脆い。本拠地を叩く機会は、いずれ来る」
レイクスは空を見上げた。そこには、セリュが残した紫の残滓など微塵も感じさせない、澄み切った青空が広がっていた。
(レイクス、大丈夫?)
(……ああ。お前が錨でいてくれる限り、俺が道を見失うことはない)
(頼もしいわね。さあ、帰りましょう。セバスさんがきっと、冷めたお茶を淹れ直して待ってるわよ)
レイクスは小さく鼻で笑うと、乱れた外套を整え、エルディナへの帰路についた。




