第10話「中間章・100年の孤独と根」
第10話「中間章・100年の孤独と根」
KR70年代も半ばを過ぎようとしていた。
南翼将ドラマ=シハルを討ち、エルディナ南境に平和が戻った直後のことである。ヴァルトニア邸の周囲には、主の勝利を祝うかのような穏やかな初夏の風が吹き抜けていた。
だが、その日の早朝、レイクスの姿は屋敷にはなかった。
彼は一人、朝露に濡れる草を踏みしめ、いつもの丘へと足を運んでいた。
白亜の大聖堂を遠くに望む、聖泉のほとり。
そこには、今やエルディナ聖王国の「聖地」の一つとして密かに語り継がれるようになった、質素な石の墓標がある。周囲には、セバスが手配した庭師――かつて行き場を失っていたハーフエルフの青年――が丹精込めて育てた、セラの髪の色に似た金色の花々が揺れていた。
レイクスは墓標の前に腰を下ろした。
銀髪を揺らす風は心地よいはずなのに、彼の赤い瞳には、拭いきれない深い愁いが沈んでいる。
(あら。今日は一段と早いお出ましね、レイクス)
胸の奥で、鈴を転がすような、けれどどこか悪戯っぽい声が響いた。
こころのセラ。彼女は実体を持たず、彼の魂の片隅に寄生するように存在する「記憶の残滓」だ。だが、レイクスにとっては、世界で唯一、自分を「レイクス」という個として繋ぎ止めてくれる錨でもあった。
「……目が覚めただけだ」
(嘘おっしゃい。セバスさんが昨日、あなたの好きなハーブティーを新しく仕入れたって言ってたわよ。それを飲む前にここに来たかったんでしょう?)
「……あいつはうるさい。余計なことまでお前に話すなと言っておく」
(ふふ、無理よ。私とセバスさんは、あなたの『健康管理』っていう共通の目的があるんだから。最近、セバスさんと息が合ってきたんじゃない?)
「……そんなことはない」
レイクスは短く切り捨てたが、その声に棘はなかった。
セバスが邸を仕切り始めて数年。当初は「掃除屋」としての習慣から、自分の身の回りはすべて自分で行おうとしていたレイクスだったが、最近では、セバスが差し出す上着に黙って袖を通し、ゼフィールが影から報告する情報に無言で頷くことが日常となっていた。
(でも、嬉しそうよ。口ではそんなこと言っても、瞳が少しだけ柔らかくなってるもの。……「家」を作って……本当によかったと思う?)
セラの問いは、不意に核心を突いた。
レイクスは視線を落とし、地面に生える柔らかな苔を見つめた。
「……正直に言えば、わからない。俺は六十五年間、どこにも属さなかった。誰の家臣でもなく、誰の主でもなく、ただ世界に溜まった汚れを掃き清めるだけの装置だった」
母を失い、魔族からも人間からも疎まれ、ただ「半魔族の掃除屋」として彷徨った半世紀以上の月日。それは、一箇所に根を張ることを拒絶し続けた孤独の記録だった。
「だが……今は、帰る場所がある。戦いを終え、馬を走らせて辿り着く門がある。……それが何なのか、俺にはまだ、正確な言葉が見つからない」
(それが「家」よ、レイクス)
セラの声が、耳元で囁くように優しく響いた。
(誰かが待っていて、誰かのために帰る。あなたが「ただいま」と言わなくても、周りのみんなが「おかえりなさい」と心の中で言っている場所。それが、あなたがこの六十五年で初めて手に入れた『根』なのよ)
「根、か。……似合わんな」
(いいえ。あなたは本当は、誰よりも温かい場所を求めていたのよ。私にはわかるわ)
沈黙が流れた。
聖泉のせせらぎと、鳥のさえずりだけが空間を満たす。
レイクスはふと、墓標に刻まれた名もなき文字をなぞるように指を動かした。
「セラ。……お前のこと、まだ、辛いかという問いへの答えだが」
聞かれてもいない問いに、レイクスが自ら口を開いた。
「……辛くない日はない。あの火刑台の炎、お前の最期の祈り、差し伸べた手に届かなかった絶望。……目を閉じれば、今でも鮮明に蘇る」
(レイクス……)
「だが……お前がこうして、俺の中にいる。お前の声が聞こえ、お前の想いが俺を動かす。……それで、十分だ。お前を失った世界で、お前と共に生きる。それが俺に課された罰であり、唯一の救いだ」
墓標に触れるレイクスの指先が、わずかに震えていた。
老成した振る舞いを崩さない彼が、唯一、その脆弱な素顔を見せられる瞬間。
(……ありがとう、レイクス。私が死んでからも、ずっと私を愛してくれて。でもね、あなたはもう、私を『守る』ためだけに戦わなくていいのよ。今のあなたには、守るべき家臣たちがいて、このエルディナがあるんだから)
「……わかっている。だが、根源は一つだ。お前が愛したこの景色を壊させない。それが俺の戦う理由だ」
(そうね。守るためよ。あなたが「守りたい」と思えるものがある限り、あなたはもう、独りぼっちの掃除屋じゃないわ)
夜が明け始めた。
地平線から差し込んだ朝光が、白亜の大聖堂を黄金色に染め上げ、丘一面に咲く花々を一斉に目覚めさせる。
背後から、微かな、しかし凛とした足音が近づいてきた。
足音の主を確かめるまでもなく、レイクスはそれが誰であるかを知っている。
「レイクス様」
セバス=グレイウィンドが、非の打ち所のない礼儀正しい角度で控えていた。
その手には、主が冷え込まないよう用意された予備の外套が掛けられている。
「朝食の準備ができております。本日は、マルターレス領から届いた新鮮な果実を使ったパイを焼かせました。……冷めぬうちに、戻りましょう」
レイクスはゆっくりと立ち上がった。
一度だけ、名残惜しそうに墓標を振り返る。
(行ってらっしゃい、レイクス。パイ、私の分まで味わって食べてね)
「……ああ」
レイクスは短く答え、セバスの隣を歩き出した。
六十五年の放浪の果てに。
「魔の伯爵」は今、愛する人の眠る地で、新たな家族と共に生きるという、静かだが力強い「生」の一歩を踏み出していた。




