第8話「北翼将リルの幻影」
第8話「北翼将リルの幻影」
KR70年代。エルディナ聖王国の王都リュミナを囲む広大な森は、不自然な白霧に閉ざされていた。
王都へ続く関所を越えようとした旅人たちが、次々と「ありもしない風景」に惑わされ、森の奥へと消えていく。その霧の正体を探るべく、レイクスはゼフィールを伴い、深い静寂の中へと足を踏み入れていた。
「主、この霧……魔力の密度が異常です。空間そのものが、何者かの意志で歪められています」
ゼフィールが影の中から囁く。レイクスは無言で首肯した。七十年の歳月が研ぎ澄ませた感覚が、霧の奥に潜む「不浄な遊び心」を捉えている。
ふいに、霧が晴れた。
そこには、あの凄惨な「断罪の場」が広がっていた。燃え盛る炎、冷酷な異端審問官の影。そして、火刑台の上で苦悶の表情を浮かべる、金髪の聖女の姿。
「……レイクス。……なぜ、助けてくれなかったの……」
炎の中から、セラが手を伸ばす。その肌は焼けただれ、瞳には呪詛の光が宿っていた。
あまりに精巧な、絶望の具現化。
「……偽物め」
レイクスは眉一つ動かさず、左手の指に嵌まった『雷光の指輪』を突き出した。
詠唱はない。ただ、明確な殺意のベクトルを指輪が変換する。
「『スパーク』」
指輪から放たれた鋭い雷撃が、空気を切り裂き、セラの姿をした幻影を真っ向から貫いた。
偽りの聖女は悲鳴を上げることなく、泥のような魔力の残滓となって霧に溶けていく。
(ちゃんと見抜いてくれたわね。ありがとう、レイクス)
胸の最奥から、本物のセラの声が響く。それは霧の向こうから聞こえる声とは異なり、彼の魂に直接触れるような温かさを持っていた。
(本物とお前(偽物)を間違えるほど、俺は落ちていない)
(ふふ、そうね。私は、そんなに怖い顔であなたを責めたりしないもの)
レイクスは心の中で答え、霧の向こう側――大きな樹の枝に腰掛けている「観客」へと視線を向けた。
「……おやおや。せっかくの再会を台無しにするなんて。君は、意外と情緒がないんだね?」
中性的な容姿、漆黒の短髪。左右で色の違う金銀の瞳を細め、薄い微笑みを浮かべている少年。
四翼将が一人、北翼「幻影卿」リル=ナーレス。彼は面白そうに脚を揺らしながら、レイクスを見下ろしていた。
「リル=ナーレス。……エルディナを汚しに来たか」
「汚す? とんでもない。僕はただ、面白いものが見たいだけだよ。例えば、英雄と呼ばれた少年が、過去の亡霊に泣き叫んで縋りつくような、喜劇とかね」
リルの周囲に、再び無数の幻影が立ち上がる。今度は数十人の「セラ」が、泣きながらレイクスを囲む。
「無駄だと言っている」
レイクスは淡々と指輪を操った。連射される雷撃が、正確に、一撃ごとに一体の幻影を確実に霧散させていく。
派手な大規模魔法ではない。最短の魔力消費、最小限の動作。それが七十年の「掃除」で培われたレイクスの最適解だ。
(黒雷を引き出せば一撃だ。……しかし、今はその時ではない)
自らの真の力、半魔族としての血を曝け出すまでもない。この程度の策士に、手の内を見せる必要はなかった。
「……この程度の力か。雷光の英雄というから、もっと派手な壊し屋だと思っていたけど……期待外れだなぁ」
リルが退屈そうに欠伸をした瞬間、彼の背後の影が爆ぜた。
「影は、饒舌な首を好みませぬ」
実体化したゼフィールの双短剣が、リルの首筋を掠める。
「うわっ、怖いね! 影の番犬まで飼っているのかい?」
リルは霧の中に溶け込むように後退し、不敵な笑みを深くした。
「いいよ、今日はこれくらいにしておこう。面白い主従だ……また遊ぼう。次はもっと深い『迷宮』に招待してあげる」
霧が急速に薄れ、リルの気配が消えていく。
「追いますか、主」
「……深追いは無用だ。奴の目的は撹乱にある。まずは、この霧で迷った奴らを拾うぞ」
レイクスは指輪の光を灯し、森の出口へと歩き出した。
幻を見て揺らぐほど、俺は弱くない。あの日、俺が失ったものの重さは、偽物の言葉ごときで揺らぐほど軽くはないのだから。
(……強くなったわね、レイクス)
セラの誇らしげな声が、夜風と共に消えていった。




