第3話「種族の垣根を越えた家」
第3話「種族の垣根を越えた家」
KR66年。エルディナ聖王国の白亜の王都、その外縁に位置するヴァルトニア伯爵邸には、大陸の常識を覆す光景が広がりつつあった。
門を叩く者は、決して「清廉な人間」ばかりではなかった。
人間に追われたハーフエルフ、住処を焼かれた獣人の親子、誇りを失い放浪していたドワーフ、そして日の当たらない場所を生きてきたダークエルフ。
この大陸において、種族ごとに居住区を分かち、互いに干渉を避けるのは暗黙の了解であり、混ざり合うことは「不浄」とさえ見なされる。だが、この館の門番を務めるゼフィールの部下――「黒影一族」の忍びたちは、主の命に従い、ただその「瞳」に宿る意志だけを問い、門を開いた。
「……あの家は化け物の巣窟だ。聞いたか? 昨日は血色の肌をした獣人が入っていったぞ」
「近寄らない方がいい。雷光の英雄というが、結局は魔族と変わらぬ狂気を飼っているのかもしれん」
エルディナの市民たちは、当初、恐怖と困惑に包まれていた。だが、それも一月と持たなかった。
「……いや、給金が良い。それに、あそこに入った奴らは皆、見違えるほど綺麗な服を着て、真っ当な食事を与えられているそうだ」
恐怖よりも先に、現世の利益と、セバスが振りまく徹底した「秩序」の噂が広まっていったのだ。
「背筋を伸ばしなさい。あなたは今、ヴァルトニア家の庭番です。その泥だらけの指先で、主の視界を汚すつもりですか?」
広大な中庭で、セバスの厳格な声が響く。
彼の前には、ガタイのいいドワーフと、耳の長いエルフ、そして小柄な人間の少年が並んでいた。本来なら酒場で殴り合いを始めてもおかしくない組み合わせだが、彼らはセバスが放つハーフエルフ特有の、静かだが圧倒的な威圧感の前に直立不動でいた。
「種族がどうあれ、この家にあるのは一つの法のみ。それは『主を不快にさせぬこと』です。礼節、清潔、そして勤勉。それさえあれば、私はあなた方を平等に扱いましょう」
セバスはそう言って、一人一人に用意された銀の刺繍入りの制服を手渡していく。
種族ごとに差をつけない、公平な配分。それは、彼らがこれまでの人生で最も望み、一度も得られなかったものだった。
一方で、邸の屋根裏や廊下の影には、ゼフィール率いるダークエルフたちが潜んでいた。彼らは実務的な使用人とは別に、邸の警護を担う。彼らは声を発さず、ただ紫紺の瞳で邸の「安全」を監視していた。
夕刻。広間に集められた三十人ほどの新たな使用人たちの前に、レイクスが姿を現した。
銀髪に赤い瞳を持つ少年。その外見の若さに、一部の新入りが息を呑むが、レイクスの身に纏う老練な空気を感じ取ると、すぐに静まり返った。
レイクスは高い位置から彼らを見下ろすようなことはせず、ただ淡々と、しかし屋敷の隅々まで届く声で口を開いた。
「……種族は関係ない。この家に必要なのは、誠実さだけだ。外で何を言われ、どこで疎まれようと、この館の中にいる限りお前たちは『ヴァルトニアの家臣』だ」
レイクスは一度言葉を切り、並んだ者たちの顔を一人ずつ確認していく。
「裏切りは俺自ら黒雷で裁く。だが、忠誠を尽くす者には、この地が滅ぶまで安寧を約束しよう」
短い演説だった。だが、放浪の果てに拠り所を求めていた彼らにとって、それは神の福音よりも重く響いた。
(いいわね、その言葉。とってもレイクスらしいわ)
胸の奥で、セラの柔らかな声が弾む。
(お前が言わせたようなものだ。……エルディナの巡礼で、お前が誰に対しても同じように祈っていたのを思い出さされただけだ)
(え、そうかな? ふふ、私の影響なら嬉しいな。レイクス、あなたが作るこの家、私、大好きよ)
「……黙っていろ」
心の中で返し、レイクスは背を向けた。
その日の晩、使用人のための食堂では、奇妙な宴が催されていた。
大鍋で煮込まれた肉料理の香りが立ち込め、大きなテーブルを囲んで、ドワーフがエルフに酒を注ぎ、人間の少年が獣人の料理長から肉を分けてもらっている。
二階の回廊からその光景を眺めていたレイクスは、手に持った香草袋の感触を確かめ、小さく息を吐いた。
「……これが、家というものか」
「左様でございますな」
背後に音もなく控えていたセバスが、満足げに頷く。
「種族の壁など、主の御名の前では砂の城に等しい。……ここから始まりますよ、レイクス様。どこにもない、不滅の家が」
外ではエルディナの雪が降り続いていたが、ヴァルトニア邸の窓から漏れる明かりは、多種多様な笑い声と共に、温かく夜を照らしていた。




