第1話「エルディナに根を張る」
第1話「エルディナに根を張る」
KR65年末。
大陸を震撼させた「祈りと焦土の戦い」、そしてレクシア神聖国の侵攻を阻んだ「雷光の英雄」の伝説は、エルディナ聖王国の白亜の街並みに深く刻まれていた。
王都リュミナの市場を歩けば、人々の視線が嫌でも突き刺さる。それはかつての「掃除屋」に向けられた忌避や恐怖ではない。救国への感謝と、得体の知れない超越者への畏怖が入り混じった、もっと重苦しいものだ。
「……あの方が、エルディナ伯爵様か」
「ああ、あの若さで。神をも畏れぬ魔の力を持つという……」
囁き声を聞き流し、レイクスは足早に人混みを抜けた。銀髪の少年――その外見は十五歳前後で止まっているが、その内に流れる時間はすでに六十五年を数える。老成したその足取りは、若者のそれとは明らかに異なり、静かで淀みがない。
俺はただ、墓を守っただけだ。
英雄などという仰々しい肩書きを引き受けるつもりはなかった。だが、結果として手にした「伯爵」という称号は、この地に留まるための公的な免罪符として機能している。
街外れの、陽だまりが落ちる丘。
白亜の大聖堂を遠くに望むその場所に、質素な石の墓標がある。レイクスはそこに腰を下ろし、静かに目を閉じた。
(そんなに難しい顔をしないで。私は悲しくないわ、レイクス)
胸の奥で、鈴を転がすような声が響く。かつて隣を歩いていた聖女、セラ=ミルティアの声だ。
「……黙っていろ」
(もう。素直じゃないんだから。せっかく立派な伯爵様になったのに、そんなに不機嫌そうだとみんなが怖がっちゃうわよ)
こころのセラは、物理的な実体を持たない「魂の欠片」だ。だが、その言葉はかつての彼女そのままに、時折ユーモアを交えて俺の孤独を揺さぶる。
俺は懐の香草袋をそっとなぞった。焦げ跡のついた袋からは、今も清廉な香りが漂っている。
「……六十五年。どこにも根を張らず、ただ汚れを掃くだけの人生だった」
(そうね。でも、ここには私の故郷がある。あなたがここにいてくれるなら、私はずっと寂しくないわ)
彼女の気配が、ふわりと背中に寄り添うような感覚。
俺は立ち上がり、白亜の王宮を見上げた。
ただ彷徨うだけの時間は、終わったのかもしれない。この地を、この墓を、そして彼女の愛したエルディナを「俺の範囲」と定める。それが、俺にできる唯一の贖罪だ。
エルディナ王宮、謁見の間。
女帝セレーナは、玉座に深く腰掛け、現れたレイクスを柔らかな、だが鋭い眼差しで迎えた。
「正式に、この地に拠点を置く決意を固めたようですね、レイクス殿」
「ああ。適当な屋敷を一軒貸してもらいたい。……それと、俺が呼ぶ使用人や家臣については、一切の干渉を禁じてもらう」
周囲の廷臣たちが、無礼な物言いに息を呑むのがわかった。だが、セレーナはわずかに口角を上げ、満足げに頷いた。
「この地を守ってくださるのですか。魔の英雄として、あるいは我が国の伯爵として」
「守るわけではない。ただ、ここにいる理由があるだけだ。俺の範囲を侵すものがいれば、それを掃除する。それだけだ」
不遜な物言いだった。だが、それが嘘偽りのない本心であることを、セレーナは見抜いている。
彼女は深く頷き、宣言した。
「よろしい。エルディナ聖王国は、ヴァルトニア家の自治を全面的に認めます。あなたがそこに根を張る限り、我が国はあなたを同胞として迎え入れましょう」
王宮を後にしたレイクスは、割り当てられた王都郊外の古い屋敷に辿り着いた。
長らく放置されていたのだろう、庭は荒れ、建物には蜘蛛の巣が張っている。だが、掃除屋には慣れた光景だ。
俺は机の前に座り、羊皮紙を広げた。
羽ペンを手に取り、慣れた筆致で短い伝令を記す。
「セバス、ゼフィール。……呼び戻す時が来た」
セバス=グレイウィンド。長年俺に仕えてきた老練なハーフエルフ。
ゼフィール=ナイトレイス。諜報に長けたダークエルフ。
二柱の忠臣がいれば、この屋敷はすぐに「家」となるだろう。
窓の外では、冬の冷たい風が吹き荒れている。
だが、俺の胸の内には、これまで感じたことのない静かな熱が宿っていた。
ヴァルトニア家。種族の壁を超え、ただ一人の主のために集う、大陸で最も異質な「家族」の物語が、ここから始まる。
(楽しみね、レイクス。新しいお家。私も、毎日お掃除を手伝うわ)
「……心の中で騒ぐな。埃が立つだろう」
(あはは。私の声で埃は立たないわよ!)
こころのセラの笑い声を聞きながら、レイクスは闇に沈む屋敷の廊下を歩き始めた。
これが、俺の新たな戦場。
大切なものを二度と失わないための、終わりのない守護の始まりだった。




