第10話:レイクスへの手紙
第10話:レイクスへの手紙
アルカディアを後にして数日。エルディナへと続く街道は、マルターレス騎士団の老兵ゼム・バルゼノアが同行していることもあり、これまでの旅路とは打って変わって、どこか軍隊の行軍のような規律正しさと安心感に包まれていた。
その日の夜、街道沿いの野営地。
パチパチと爆ぜる焚き火の明かりの下で、ヴィーナは膝の上に厚手の紙を広げ、一心不乱にペンを走らせていた。
「ヴィーナ、何書いてるの? 眉間にシワ寄ってるわよ」
ナツキが串焼きを片手に覗き込んできた。ヴィーナは顔を上げ、少し照れくさそうに笑う。
「おとうさんへの手紙! マルターレスさんたちが先に早馬を出してくれるって言うから、先に報告しとこうと思って。……でも、書きたいことが多すぎて大変なの!」
「あはは、確かにね。ここ数日の出来事、普通の一生分くらいの濃さだったもん」
ヴィーナは再び紙に向き直り、今日までの驚きと、伝えたい想いを言葉にしていった。
「おとうさんへ
お元気ですか? ヴィーナです。
今、エルディナに向かう途中のキャンプでこれを書いています。
まず、フォルネリアでのこと! 私たち、依頼を達成して領主様に会いに行ったの。そこで名前を名乗ったら……。なんだか、そこにいた騎士さんたちが一斉に平伏して、『ヴァルトニア様』って……。なんでみんな、あんなに怖いくらい頭を下げるの?! 私、ただのヴィーナなのに!
それから、アルディアのアルカディアっていう街を通ったんだけど、そこでも大騒ぎになっちゃいました。
おとうさんからもらった白いローブ、すっごく綺麗だけど、歩いてたら暑くなっちゃって……。ちょっと外衣を脱いだだけなのに、門番の騎士さんたちが一斉に地面に膝をついて平伏したんだよ! 暑かっただけなのに!!
そこでね、ゼム・バルゼノアさんっていう騎士さんに会いました。
ゼムさんは昔、ヴァルトニア騎士団の試験を受けたことがあるんだって。でも、セバスさんに負けちゃったんだって言ってたよ。
セバスさんって、お家にお客さんで来た時に二回くらいしか会ったことないけど、本当はすっごく強い人だったんだね! いつもお茶を淹れてくれて、おとうさんと静かにお話ししてるだけの人だと思ってたよ。
ゼムさんから伝言を預かりました。『今もあの試験を誇りに思っている』って、セバスさんに伝えてほしいそうです。
あと、リストール様っていう当主様にも会いました。
おとうさんに言われていた通り、短剣を渡したよ。そうしたら、リストール様がもう一本の短剣を持ってきて……二本の剣が、ぴったり対になっていたの! おとうさん、ずっと前からこうなることを考えて、私にあの剣を持たせたの?!
マルターレス家の家訓も、ちゃんと覚えたよ。『功により栄え、義により在る』だよね!
おとうさん。
私、正直に言うと、今もよくわかってないことがいっぱいです。
おとうさんがどれだけすごい人なのか、みんながどうしてあんなに驚くのか。
でも、みんなが教えてくれるおとうさんの話は、どれも本当のことなんだなって感じます。
でもね。
おとうさんがどんなにすごい英雄でも、私には……ずっとおとうさんだから。
フォルネリアで一緒にご飯を食べて、たまに怒られたり、頭を撫でてくれたりしたあのおとうさん。それは、これから先も絶対に変わらないよ。
あと少しでエルディナに着きます。
早く会いに行きます。
ヴィーナより」
「……ねえ、それ見てもいい?」
クロエが耳をぴくぴくとさせながら興味津々に聞いてきた。
ヴィーナは「いいよ!」と二つ返事で手紙を渡し、パーティーのメンバーで回し読みが始まった。
「……ぷっ、『暑かっただけなのに!!』って。ヴィーナ、そこ強調しすぎでしょ」
ナツキが腹を抱えて笑う。
「でも、ヴィーナ様らしい素直な文章ですね。レイクス閣下も、きっと微笑まれると思います」
クロエが優しく微笑む。
「……私、これを閣下が読むところを想像しただけで、緊張で震えが……」
エリカが紙の端を持ってガタガタと震えている。
最後に手紙を受け取ったのは、少し離れたところで腕を組んでいたゼムだった。彼は差し出された手紙を黙って受け取り、焚き火の光で内容に目を通した。
「……。……ご令嬢らしい手紙だ。飾ることを知らぬ」
「ゼムさんのことも書いてあるよ! 読みました?」
ナツキが茶化すように言うと、ゼムは少しだけ視線を逸らし、手紙をヴィーナに返した。
「……読まなくていい。ただの老兵の繰り言だ」
だが、その横顔は、かつて敗北を喫したヴァルトニアの地へ再び向かう誇りに満ちていた。
一方、エルディナ。
夜の静寂に包まれたヴァルトニア邸の執務室で、レイクスは一人、書類に目を通していた。
扉が静かにノックされ、腹心のゼフィールが入室する。その手には、封の切られた一通の手紙があった。
「旦那様。ヴィーナお嬢様より、早馬が届きました。マルターレス家を経由しております」
レイクスの手が止まる。彼は無言で手紙を受け取ると、ゼフィールを下がらせた。
部屋に一人きりになり、レイクスは娘の拙い、しかし真っ直ぐな筆致を追い始めた。
「……ふん。やはり騒いでいたか」
門前での平伏に驚く娘の様子が目に浮かぶ。思わずため息をつきながら、読み進める。
「対の剣……。リストール、受け取ったか」
マルターレス家との縁が再び結ばれたことを確信し、レイクスは短く「……そうか」と呟いた。
そして、手紙の中盤。ゼム・バルゼノアの名と、セバスへの伝言を見つけたところで、彼は執務室の隅に控えていた執事へ声をかけた。
「セバス」
「はい、旦那様」
無から染み出すように、老執事セバスが姿を現す。
「ゼム・バルゼノアという男から伝言だ。今も、お前とのあの試験を誇りに思っている、とな」
セバスは数秒の間、彫像のように動かなかった。
やがて、その深い皺の刻まれた口元に、静かで、慈しむような微笑が浮かぶ。
「……そうですか。それは、よかった。あの方は……本物でございましたから」
「落ちたのに、誇りに思うのか」
「ええ。落ちたからこそ、でございます。己の限界を知り、それでもなお歩みを止めぬ者こそが、真に強い。あの方はいつかきっと、別の場所で本物になると思っておりました。……なられたようですね」
「……そうか」
レイクスは再び手紙に目を落とした。
そして、最後の一文で彼の視線が止まる。
『でも私には……ずっとおとうさんだから。それは変わらないよ』
レイクスは沈黙した。
窓から差し込む月光が、彼の険しい横顔を照らす。
二百五十年。
この大陸を陰から支え、魔王との契約という呪縛に近い重責を背負い、感情を殺して生きてきた。
ヴァルトニアという名は、人々にとっては救いの象徴であり、敵にとっては死の宣告だった。
その巨大な名の陰で、ただの「父親」として接してくれる存在が、これほどまでに己を揺さぶるとは思わなかった。
レイクスは無意識に、懐に忍ばせていた香草袋を強く握りしめた。
セラ。お前が遺してくれたこの子が、私をただの男に戻そうとしている。
「……そうか。変わらぬか、ヴィーナ」
その声はあまりに小さく、誰の耳にも届かなかった。
だが、執務室の空気は、わずかに温かさを帯びたように感じられた。
街道を走る馬車の音。
ヴィーナはまだ、自分が背負っている血筋の真実も、おとうさんが隠し持っている悲壮な決意も、何も知らない。
しかし。
彼女が纏う黒銀のローブ。
腰に佩いた誓いの短剣。
そして、真っ直ぐに「父」を信じるその心。
持っているものが、彼女の言葉以上に、すべての真実を語り始めていた。




