第3話:ゼム・バルゼノアの話
第3話:ゼム・バルゼノアの話
アルカディアの石畳を、重厚な甲冑の音が刻んでいく。
先頭を歩くのは、マルターレス家の老兵ゼム・バルゼノア。その背中は岩のように硬く、寄せ付けない威厳があった。ヴィーナたちは、まるで護送される罪人のような、あるいは王族の行列のような、なんとも落ち着かない気分でその後を追っていた。
「あの……ゼムさん」
ヴィーナはたまらず、銀糸の刺繍が眩しいローブの裾を握りしめながら声をかけた。
「なんだ」
ゼムは振り返らずに短く応じる。
「なんで私の格好を見ただけで、門番の人たち、あんなに一斉に頭を下げたんですか? これ、おとうさんが『汚さないように着なさい』って言ってくれただけの服なんですけど……」
「……ヴァルトニア家の意匠だからだ」
「それって……そんなに有名なんですか?」
ゼムの足が、一瞬だけ止まった。数秒の沈黙の後、彼は再び歩き出し、地を這うような低い声で続けた。
「……有名どころの話ではない。ヴァルトニア家は大陸で最も長く、最も多くを魔の脅威から守り続けてきた家だ。百八十五年間、戦死者ゼロという伝説を維持する騎士団を持つ家。そして、その創設者が……あの**レイクス=ヴァルトニア**伯爵だ」
「あのって……ゼムさん、おとうさんのこと知ってるんですか?」
横からナツキが身を乗り出した。ゼムはわずかに肩を揺らし、吐息の混じった声で答える。
「知っているというより……剣を振るう者で、その名を知らぬ者はいない。伝説として刻まれている。我が主、マルターレス家の初代・リースバルト様は、レイクス閣下の戦友であらせられたのだ。KR50年から百五十年前後まで、共に戦場を駆け抜けた仲だと聞き及んでいる」
「ひ、百五十年……!?」
ヴィーナは思わず絶句した。おとうさんと一緒にいた時間は楽しかったけれど、そんな神話のような数字が出てくるとは思ってもみなかったのだ。
「だから、そのローブの意匠は、マルターレスとヴァルトニアの永遠の友好の証。この領地では……その意匠に頭を下げるのは、騎士として当然の礼儀なのだ」
「おとうさんって……そんなにすごい人だったの……?」
ヴィーナは独り言のように呟いた。
頭の中に浮かぶのは、台所で不器用に包丁を握る姿や、洗濯物が乾かなくて少し不機嫌そうに空を仰ぐ「普通」の父親の姿だ。
「フォルネリアで一緒に暮らしてた時なんて、全然わからなかったよ。あ、でも、私が森で面白そうな虫を捕まえて持っていったら、すごく嫌そうな顔で『いらん、あっちへやれ』って言ってたし」
「……虫?」
ゼムの足が再び止まった。今度はゆっくりと振り返る。その顔にある歴戦の傷跡が、心なしか戸惑いで歪んでいた。
「そう! 足が二十本くらいあって、背中が虹色に光ってるやつ!」
「ヴィーナ、それは普通の人でも嫌がるやつだよ……」
クロエがこらえきれずにクスクスと笑い出す。エリカも少しだけ緊張が解けたのか、口元を緩めていた。
「……虫、か。閣下のそのようなお姿は……想像がつかんな」
ゼムはわずかに表情を和らげた。だが、すぐに視線を鋭くし、一行を見渡す。
その視線に、最年長のレナが真剣な表情で問いかけた。
「……ゼムさん。これから当主の方と謁見するとのことですが、私たちのような流れの者が同行しても、問題はないでしょうか?」
「問題はない。むしろ……リストール様は喜ばれるだろう。それに、あなた方の持ち物の中に、当主に渡すべき『何か』がある可能性がある」
「え? 私の持ち物に?」
ヴィーナが首を傾げると、ゼムの鋭い眼光は彼女の腰のあたりに固定された。
「……その短剣だ」
「これ? これがおとうさんの言ってた……」
ヴィーナが短剣に手をかけようとしたとき、ふとした疑問を口にした。
「ゼムさんって、なんだかヴァルトニア家に詳しいですね。教科書とかで勉強したんですか?」
その問いに、ゼムは苦笑とも自嘲ともつかない笑みを浮かべた。
「……詳しいというより、身をもって知っている。……二十代の頃、俺は自分の腕にそれなりの自信を持っていた。このアルカディアでなら、誰にも負けないとな。それで……ヴァルトニア騎士団の入団試験を受けたことがある」
「ええっ!? あの騎士団の試験を受けたの!?」
ナツキが驚愕の声を上げる。ゼムは遠い空を仰ぎ、記憶を紐解くように語り始めた。
「だが……落ちた。第一試験でな。相手は騎士ですらなかった。……ただの、執事だ」
「執事……? セバスさんですか!?」
ヴィーナの言葉に、ゼムは頷いた。
「ああ。当時の俺は血気盛んだったが……セバス様は穏やかな顔のまま、一瞬で俺を制した。攻撃はすべて紙一重で捌かれ、防御は羽毛に触れるような軽やかさですべて崩された。……『不合格です』と告げられたとき、俺のプライドは粉々になったよ」
ヴィーナは、いつも優しくお茶を淹れてくれるセバスの姿を思い出した。確かに所作は綺麗だけれど、あの厳しいゼムを圧倒するなんて。
「……セバスさん、そんなに強いんですね」
「強いどころではない。あの人は……本物だ。俺が一生をかけても届かない領域に、呼吸するように立っている。それを二十代の若造だった俺は初めて思い知らされた。……負けた後はしばらく剣を握れなかったよ。だが、ヴァルトニア騎士団の整列を遠くから見たときに思ったんだ。『あの高みを目指した自分は、間違っていなかった』とな」
ゼムは真っ直ぐにヴィーナを見つめた。
「落ちた俺は二流だ。ならばせめて、このマルターレスで誠実に剣を振るおうと。そう決めて、俺はここで仕えている。……悔いはない」
「……ゼムさん、かっこいいと思う。自分の負けをそんなふうに言えるの、すごいです」
ヴィーナが心の底からそう告げると、ゼムは少し面食らったような顔をし、すぐに元の厳格な表情に戻った。
「……ヴァルトニア家の娘らしい言葉だ。ヴィーナ殿、エルディナに着いたら、セバス様に伝えてくれ。『ゼム・バルゼノアは、今もあの試験を誇りに思っている』とな」
「はい! 絶対伝えます!」
ヴィーナは力強く頷き、腰の短剣をそっと引き抜いて見せた。
「これですよね? おとうさんに『リースバルト一族に会ったら渡せ』って言われてたやつ。由来はわからないけど、大事に持ってたんです」
鞘からわずかに覗いた刃。そこには、星を象ったような不思議な紋章が刻まれていた。
それを見た瞬間、ゼムの呼吸が止まった。
「……っ。これは……」
老兵の眼が、震えるほどに見開かれる。
「ゼムさん? どうかしたんですか?」
「……対の……。いや、よそう。俺が語るには重すぎる」
「対の? 何がですか?」
「……当主に見せろ。その短剣の話は、現当主リストール様から直接聞くのがいい」
ゼムはそれ以上、何も語らなかった。しかし、彼の瞳には確かな確信と、震えるような歓喜の光が宿っていた。
「見えてきたぞ。あれがマルターレス家の邸だ」
大通りの突き当たり。城壁の一部かと見紛うほどの巨大な石造りの館が、夕刻の光を浴びてそびえ立っていた。
そこには、大陸の歴史を背負うもう一人の男が待っている。
ヴィーナが手にする、その「黒銀の短剣」の意味を、本当の意味で知る人物が。
【次話予告】
案内された広間で待ち構えていたのは、マルターレス家六代目当主リストール。
彼が手にする家宝、魔剣スターレットが、ヴィーナの短剣に共鳴するように光を放つ。
語られるのは、百五十年前の約束。
「待っていたぞ、この刻を——」
次回、第4話「魔剣と短剣、共鳴する誇り」。
少女は、自分に流れる血の重さを、まだ知らない。




