第10話「中間章・50年の孤独」
第10話「中間章・50年の孤独」
アルカディアの喧騒が届かない街の端、崩落した礼拝堂の石床にレイクスは座っていた。
天井の半分が抜け落ち、そこから差し込む月光が、砕けた女神像を白々と照らしている。空気は冷たく、埃の匂いと、消えることのない微かな焦げ跡の臭いが鼻を突いた。
レイクスは左手の「女神の指輪」をそっとなぞる。
五十年。人間にとっては一生にも等しいこの月日が、彼にとっては永遠に続く黄昏のようだった。
(あの夜から、すべてが始まった……)
記憶の奔流が、静寂の中に甦る。
**KR0。黒い雷雨の戦い。**
空が紫黒に染まり、大地が震えたあの日。父、魔王ザガル=モルドの進軍と共に放たれた濁った魔力は、大陸の精霊たちを狂わせ、人々を絶望の淵に叩き落とした。レイクスがその時見たのは、炎に包まれる王都と、逃げ場を失った人々が虫のように蹂躙される光景だった。
(父は、世界を壊そうとした。そして母は……俺に、この世界を見ろと言った)
母の面影は、今では霞の向こうにある。
天使の血を引く母は、魔王の子であるレイクスを愛し、守り続けた。だが、運命は非情だった。
**KR25。**魔王が封印され、混乱が極致に達していた頃。魔族の残党に襲われたあの日、母はレイクスを逃がすために、自らの光を使い果たした。振り返った時、母の姿はそこになく、ただ冷たい風と、消えゆく羽のような輝きだけが残されていた。
独りになったレイクスを拾い、その力を鍛え上げたのが、若き日のリランダだった。
当時のリランダは、今よりもさらに危ういほどの魔力に溢れ、一方で今以上にドジを連発していた。
「レイクス、あんたの目は死んでるわ。でも、死んでるなら蘇らせればいいじゃない」
彼女はそう言って、レイクスに厳しい修練を課した。人間でも魔族でもない、宙ぶらりんの自分を「ただのレイクス」として扱った唯一の存在。彼女の工房で過ごした時間は、彼にとって唯一の安らぎであったかもしれない。
だが、安らぎは長くは続かない。彼は知っていた。どれほど親しくなり、どれほど言葉を交わしても、自分だけが置き去りにされていくことを。五十年の放浪は、出会いよりも多くの「別れ」を彼に刻み込んできた。
(俺は、何のために戦ってきた……。ただ生き延びるためか。それとも、父の残した汚泥を掃除するためか)
答えの出ない問いを、幾千回繰り返しただろうか。
その時、礼拝堂の入り口で、カタリと小さな音がした。
「……そこにいるのは分かっている、リースバルト」
レイクスが声をかけると、柱の影からバツが悪そうにリースバルトが姿を現した。
「隠れていたつもりだったんだがな。やっぱりお前には敵わない」
リースバルトはゆっくりとレイクスの隣まで歩み寄り、瓦礫の上に腰を下ろした。
「……お前が何を考えているのか、俺には全部は分からない。お前の背負っているものが、どれほど重くて古いものかもな」
リースバルトは、自分の膝に置いた拳を強く握りしめた。
「でも、これだけは言える。俺はここにいる。お前が一人で背負いきれないなら、俺が隣で剣を振るう。お前が五十年の孤独を抱えているなら、これからの五十年は、俺がその一部を預かってやる」
熱を帯びた、愚直なまでの真っ直ぐな言葉。
レイクスは無言で彼を見た。リースバルトの瞳には、かつて自分が失った「明日を信じる光」が宿っていた。
(五十年、か。人間には、それが精一杯の誓いなのだろうな)
レイクスは自嘲するように口角を僅かに上げた。だが、その胸の奥底に溜まっていた重たい澱が、少しだけ軽くなったのを感じた。
「……勝手なことを言う。お前のような若造が、俺の孤独を理解できるはずがない」
レイクスは静かに立ち上がり、外套の裾を払った。
「だが、お前の剣にはまだ磨く余地がある。……行くぞ、リースバルト。夜明けは近い」
レイクスが振り返らずに歩き出す。リースバルトは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに「ああ!」と力強く返事をして、その背中を追った。
壊れた礼拝堂の奥、女神像の足元に、一筋の清浄な光が差し込んでいた。
かつて母が守ろうとした世界が、今また、新たな因縁と共に動き出そうとしている。




