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上京

 翌日、私は朝五時に布団から出た。母は既に起きていて朝食の準備をしていた。やはり母も眠れなかったのだろう、母の目は真っ赤だった。二人とも無言のまま朝食を食べ、五時半に私が通勤用に使っているおんぼろの軽自動車で福島駅に向かった。福島駅発の一番早い新幹線に乗れば午前九時には湾岸警察署に到着できる予定だ。

 予定通り、母と私は午前九時前に湾岸警察署に到着した。警察署の受付で事情を話すと、すぐに遺体安置所に通された。そこに横たわっていたのは間違いなく兄貴だった。

「信一」母はそう言うと兄貴の遺体の横で泣き崩れた。しかし、私は泣けなかった。目の前の遺体は間違いなく兄貴であるはずなのに、兄貴が死んだ実感がまるでわかないのだ。兄貴を嫌っていたからなのか、それは自分自身でもよく分からなかった。とにかく涙は出ないし、悲しくなかった。

 身元の確認を済ませた後、母と二人で会議室に通され、刑事から説明を受けた。

「昨晩八時頃、お兄さんは自宅マンションの近くで発見されました。第一発見者は夜のジョギング中にたまたま現場を通りがかった男性です。お兄さんは背中と腹の数か所を刃物のようなもので刺されていました。発見された時には既に死亡していたと思われます。死因は失血死。通り魔の犯行なのか、もしくはお兄さんに恨みのある者の犯行なのか、今のところ捜査中です」

 刑事は淡々と事件当時の状況と捜査の進捗状況を教えてくれた。

「お兄さんが誰かに恨まれているとか、そんな話を聞いた事はないですか?」

「いえ、何しろ離れて住んでいるものですから、最近の信一の人間関係についてはちょっと分かりませんね」母は少し落ち着き、冷静に答えていた。

「そうですか?それではお兄さんがマルチ商法をやっていた、というのはご存知ですか?」

 私は刑事の言葉に驚いた。ビッグビジネスがマルチだったなんて想像もしていなかった。

「マルチ商法ですか?情けない話ですが、あの子が何の仕事をやっていたのか知らないんですよ」母は言った。

「そうですか、では、最後に信一さんと会われたのはいつですか?」

「えーっと、一週間くらい前だったと思います。夜、突然帰ってきて、仕事がうまくいっていると言って私が貸していたお金を返してくれました」

「ほう、受け取った金額はいくらですか?」

「はい、二百万円です」

「そうですか」と言ったきり刑事はしばらく黙っていた。

「あのー、信一は何か危ない商売に手を出していたんでしょうか?」母はおそるおそる尋ねた。

「そうですね、一応被害届は出ているんですよ、信一さんに騙されたという内容の」

「えっ、それは詐欺か何かですか」私は身を乗り出して刑事に尋ねていた。

「いえね、マルチの場合は詐欺かどうか見極めが難しいんですよ。言った言わないの水掛け論になりやすくて、大抵は起訴まで行かないんですよね」

 刑事の言葉から兄貴が詐欺まがいの事をやっていたのは間違いないようだった。

「あのー、それで信一の遺体はいつ頃返していただけるんでしょうか?」母には兄貴の商売の事なんかよりもその事の方がよほど大事な事なのだろう。死んだ息子を一刻も早く荼毘に付してあげたいのだろう。 

「えー、申し訳ないのですが、これは殺人事件ですので司法解剖に回す必要があるんですよ。ですからご遺体をお返しできるのは一週間後になってしまいますね」

「そうですか」母はがっくりと肩を落とした。息子が殺され、解剖され、すぐに遺体を返してももらえない。落胆している母を慰める言葉など私には見つからなかった。

つづく

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