兄貴
「ただいまー」私と母親の二人暮らしのアパートに兄がやって来た。時計の針は夜の十時を指していた。
「どうしたの、こんな遅い時間に」母は困惑した様子だった。
「うん、ちょっと」兄貴はもごもごと聞き取れないほどの声で返事をした。
私は、兄貴と顔など合わせたくなかったのですぐに自分の部屋に引っ込んでしまった。
うちの家族はいわゆる母子家庭だった。トラックの運転手だった父は私と兄貴がまだ小学生の時に居眠り運転で電柱に正面衝突し命を落とした。私には父親の記憶などほとんど残っていなかった。当然、生活はかなり苦しく母が仕事を二つ掛け持ちして、やっと生きていける程度だった。欲しい物など買ってもらった記憶などなく、当時、同級生たちが夢中でやっていたファミコンやらのゲームには無縁の子供時代を送った。
こんな生活から早く抜け出したかったのだろう、兄貴は高校を卒業するとすぐに家を出た。私も高校を卒業するとすぐに近所に新しくできたスーパーに就職した。安月給だったが、母親と二人の稼ぎで少しはましな生活が出来るようになっていた。
兄貴は最初の就職先をすぐに辞めてしまい、以来、色々な事に手を出している様子だった。兄貴はあまり詳しい事を話そうとしなかったが、金に困ると、逃げ出したはずのこの家に戻ってきては、母に泣きついていた。
自分の部屋にいても母と兄貴の話声は良く聞こえた。自分の部屋といっても居間とは襖を一枚隔てただけの部屋なのだから当然だ。居間の方からは「すまない」とか「必ず返すから」とか兄貴のいつものセリフが聞こえてきた。たまらず私は襖を開けた。
「母さん、もう兄貴に金を渡すのはやめろよ、どうせ返すつもりなんかないんだから」
実際、兄貴は母にただの一度も金を返した事は無い。しかし、弟の私に言われてさすがにカチンときたのだろう。
「今度こそは返すよ、今まで借りた分に利子を付けて返してやるさ、今度の仕事はでかいんだ、お前なんかには想像もつかないビッグビジネスなんだよ」
兄貴は私の声よりも大きな声で怒鳴り返してきた。
「信一も修司もやめなさい、こんな夜中に近所迷惑でしょ」
母さんだって金が返ってこない事くらい分かっているはずだった。それでも母親には息子を見放すことなど出来ないのだろう。私はピシャリと襖を閉め部屋に戻った。二人はまたぼそぼそと話を始めたが、兄貴はすぐに帰って行った。
つづく




